第3話『嫁がいない!?夫、誤解に気づき発狂』
翌朝、城内は静まり返っていた。
夜明け前に目を覚ましたノアは、寝台から起き上がると軽く伸びをしながら寝室の扉を開いた。
誰もいない。
廊下にも足音はなく、使用人の影も見えない。
……ルシアの部屋に行こう。
昨夜、彼女に会うつもりだった。
部下の若造が祝宴を開くと言うから、顔を出したのはほんのわずかな時間だ。
まさかあの新妻があんなに馴れ馴れしいとは思わなかった。
(顔を見たら謝らなきゃな……)
久々の再会に、照れ臭さもあった。
戦場で毎夜思い出していた柔らかな髪も、くすぐったい声も、すべてが懐かしくて。
早く抱きしめたくて仕方がなかったのに――
まさか、自分の寝室に戻ったのが深夜だったとは。
彼女を待たせてしまったかもしれない。
けれど今日、顔を見れば、きっと許してくれるだろう。
そして。
ルシアの部屋の扉をノックしたノアは、すぐに違和感を覚えた。
「ルシア?」
返事はない。
再度、扉をノックし、扉を開けた。
室内には誰もいない。
寝台は整えられ、使用された気配すらない。
(……え?)
嫌な予感が走る。
書きかけの書簡類が片付けられ、姿見の前にはドレスもない。
ただ一枚、机の上に、紙が伏せて置かれていた。
ノアがそれを手に取った瞬間、全身が凍りつく。
――ルシア・フィーレン。
そこに書かれていたのは、見間違うはずのない彼女の筆跡。
婚姻解消を示す、正式な署名。
【離縁状】。
「……嘘、だろ」
小さく呟いた声が、震えた。
まるで夢のようだった。
あり得ない。
信じられない。
彼女が、自分を置いて去るはずがない。
あんなにも愛し合っていたのに。
誤解があったとしても、話し合えば済むような事しか身に覚えがない。
けれど、この手の中には彼女自身の“決断”がある。
激しい勢いで廊下に飛び出し、すれ違った侍女を呼び止める。
「ルシアはどこだ!?」
「えっ、奥様は……急に“実家に戻る”とおっしゃって……」
「実家? 馬車は? 誰が同行した?」
「……あの、ミリア様が付き添いで……でも、朝方にはひとりで戻ってきましたが……」
「何で止めなかった!!」
怒鳴りながらも、自分が一番悪いのだと分かっていた。
遠征から帰還したその日に、彼女の部屋に行かなかった。
(……誤解だ。誤解に決まってる)
ノアは口の中で自嘲気味に吐き捨て、すぐに馬を用意させた。
王城を飛び出し、街道を疾走する。
空は晴れ、風が冷たい。
フィーレン伯爵家へ向かう最中、ノアは過去の記憶を反芻していた。
遠征前の夜、彼女は少しだけ元気がなかった。
だがそれを「寂しがってるだけ」と、彼は都合よく解釈した。
もしかしたら、すでにあのとき――
ノアの背筋がぞわりと凍りついた。
目の前が歪む。
すべてが、彼女の涙の理由とつながっていく気がした。
馬の蹄が、フィーレン邸前の石畳を強く叩いた。
門番が驚いて駆け寄るも、ノアはそれを無視して扉を叩く。
「ルシア! いるんだろ、開けてくれ!」
使用人が慌てて彼を止めようとするが、ノアは押しのける。
「俺は話をしに来た! 頼む、時間をくれ!」
数分後、ようやく部屋の扉が静かに開かれる。
中に立っていたのは、以前より少し痩せたルシアだった。
白いナイトローブの上から、羽織を重ねている。
化粧もなく、ただ静かに彼を見ていた。
「……ノア」
その声は、昔と同じだったのに。
どこか、もう戻れない場所から響いてくるようだった。
「ルシア、聞いてくれ。なにかの誤解だ。俺はお前がいないと──」
「子供が、できたの」
その一言で、彼の言葉が途切れた。
「……本当か?」
「ええ。でも……あなたの子じゃないの」
ノアの心臓が、何かに握り潰されたように止まった。
「……今、なんて?」
「他の男の子供よ」
その瞳は、どこか覚悟を宿していた。
「だから、私はもうあなたの妻ではないし、追いかけてくる理由もないはずよ」
ノアは、言葉を失ったまま立ち尽くした。
数分後、彼は何も言えぬままその場を去った。
足元が覚束ない。
実家の廊下を歩くたびに、あの“違う”という声が反響する。