第2話『妊娠を伝えることもできず、私は去る』
荷物は必要最低限にまとめた。
ドレスも宝飾も、城から贈られたものは一切持たない。
私の身に今残されたものは、ひとつだけ――
この命を、守ること。それだけだった。
淡く霞む朝焼けの中、馬車の準備を進める侍女たちの声が小さく聞こえる。
私は寝室の机に目を向け、そこに残された一枚の紙を見つめた。
【離縁状】
それは本来、貴族間の正式な離縁に用いられる文書であり、夫婦どちらかの一方が記すことで効力を持つ。
法的には王の承認が必要だが、貴族社会では慣例として「一筆あれば黙認される」のが常であった。
私は何も記さなかった。
ただ名前だけ――
ルシア・フィーレンとしての、最後の署名を。
「……これでいいわ」
声に出すと、胸がきしむように痛んだ。
泣かないと決めたのに、喉の奥が熱くなっていく。
それでも、私は筆を置き、椅子を静かに引いた。
「奥様、どこか……ご旅行でも……?」
廊下で出会った侍女が、おずおずと声をかけてくる。
「ええ。少しだけ、空気を変えたくて」
微笑んだつもりだったが、頬が引きつっていたかもしれない。
けれど彼女は何も言わず、深く頭を下げた。
すべてを悟られてしまう前に、立ち去らなければならない。
「馬車の用意は?」
「すでに城門に控えさせております。お荷物も、奥様の指示通りに」
「ありがとう。……それと、」
付き従う年若い侍女――ミリアが、不安げにこちらを見つめる。
ずっと一緒にいた子だ。口が堅く、気も利き、何より私の体調の変化にも一番に気づいてくれていた。
「あなたには、これを」
私は小さな包みを差し出した。
そこには銀貨と、今までの給金に加えて感謝の手紙が入っている。
「えっ……奥様? どういう……?」
「私は今日でこの城を出るわ。もう戻らない。だから、あなたには自由になってほしいの」
「……私もお供します!」
「だめよ。あなたは気立てもいいし、どこに出ても通用するわ。ね? これは命令。今までありがとう」
ミリアの目に涙が浮かび、唇が小さく震えていた。
けれど彼女は、最後まで逆らわず、深々と頭を下げた。
「……ご無事で、お元気で」
「ええ。あなたもね」
後ろを振り返らず、私は馬車へと歩みを進めた。
城門を抜けると、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でた。
あの部屋の窓には、まだカーテンが閉ざされたままだった。
彼はまだ眠っているのだろうか。
あるいは、あの女と共に起きているのだろうか。
(――知りたくもない)
自分でも驚くほど、胸が静かだった。
心が壊れてしまったのかと思うほどに。
でも、腹の奥に宿る命だけが、確かに私を現実へとつなぎとめていた。
吐き気、眠気、食欲の変化――すべてが、この子の存在を物語っていた。
「……守らなきゃね」
ぽつりと、呟いた。
誰にも聞こえない声で。
愛されていた時間が幻だったとは思わない。
確かに彼は、私を求めてくれた。愛してくれた。
けれど、あの女が彼の袖に触れた瞬間に、私は壊れてしまった。
(私の心は、終わったのよ)
馬車が揺れ、城が遠ざかっていく。
その揺れの中、私は静かに目を閉じた。
実家――フィーレン伯爵家は王都から馬で半日の距離にある。
父は病で隠居しており、今は兄が当主として屋敷を仕切っている。
到着すると、使用人たちが驚きながらも丁寧に迎えてくれた。
「急なことで驚かせてごめんなさい。少しの間、ここで静かに過ごさせて」
「はい、伯爵令嬢」
私がここに来たのは、もう何年ぶりになるだろう。
嫁ぎ先では常に“将軍の妻”として気を張っていた。
けれどここでは、ただの“娘”に戻れる。
誰も私に問いたださなかった。
夫の不在も、身重の体も、離縁状のことも。
それが、何よりありがたかった。
夜、兄が部屋を訪ねてきた。
「……子供か」
私が打ち明けると、兄は深く息をつき、何も言わずに私の頭を撫でた。
「何も聞かないの?」
「お前が口にするまでは、な」
「……ありがとう」
ただその優しさが、心にしみた。
ひとつ、ひとつ、過去の気配が遠ざかっていく。
でも、私の中にはまだ、確かに彼が残っていた。
触れられた手の感触も。
名前を呼ばれた声も。
夜に交わした体温も。
(どうか、この子だけは──)
生まれてきたら、たくさん愛してあげよう。
私は、母になる。
そしてそれだけで、もう十分。
遠く、王城ではまだ誰も気づいていなかった。
彼女がいなくなったことも、寝室に残された離縁状も。
そして、愛する女が自分の子を宿していたことも――