第20話(最終話)『あなたに会いに、生まれてきた』
その朝、静かな痛みで目が覚めた。
最初は腹部が締めつけられるような違和感。
何度目かの張りかと軽く考えたルシアだったが、二度、三度と間隔を詰めてやってくる痛みに、ようやく「その時」が来たのだと悟った。
顔をしかめながらゆっくり身体を起こすと、控えていた侍女がすぐに駆け寄ってきた。
「……陣痛、ですか?」
「ええ。たぶん……でも、そんなに焦らなくていいわ。まだ、始まったばかりだから」
その言葉に侍女は頷きつつも、すでに目に涙をにじませていた。
ルシアは微笑んだ。
今日という日は、泣くにはまだ早い。
報せはすぐに王宮内を駆け巡り、ノアの元にも届けられた。
「……ついに来たか」
剣を置き、外套を脱ぎ、全ての任務を副官に託す。
彼の瞳には迷いも躊躇もなかった。
「将軍、随行いたしましょうか!」
「必要ない」
産室に入ったルシアは、何度も深く息を吐いていた。
痛みは、波のように周期を持って押し寄せ、
息をするだけで汗がにじむ。
けれど彼女は、叫びもしなければ、取り乱しもしなかった。
“この痛みの向こうに、あなたがいる”
そう思えるから、耐えられた。
“あなたに会いに、私は産むんだ”
数時間後。
とうとう、声が響いた。
新しい命が、この世界に産声を上げた。
小さくて、ぬくもりをもったその存在が、
震えるルシアの腕の中に、そっと渡された。
「おめでとうございます。女の子です」
ルシアは、涙を流しながらその顔を見つめた。
指先、まつ毛、ほんのりと色づいた唇――
そのどれもが、愛しくて、胸の奥を締めつけるほどに美しかった。
「……あなたが……ミレイア」
声に出した瞬間、その名は確かに命となった。
「あなたに会えて、ほんとうに、よかった……」
ノアが産室に呼ばれたのは、それからすぐのことだった。
扉を開いた彼を見て、ルシアは笑った。
疲れ切った身体で、それでも精一杯に、彼を見つめて言った。
「……ノア、“抱いてあげて”」
彼は歩み寄り、ベッドの傍にひざをつき、
小さな包みを見下ろした。
ふたりの子ども。
血の繋がりも、愛の繋がりも、
たった今この世に生まれた“家族”が、そこにいた。
「……ミレイア、だな?」
「ええ。ちゃんと、あなたの声に反応してくれたわよ」
彼は、小さな額にそっと唇を落とした。
「ようこそ。お前に会うために、俺たちは生きてきたんだな」
その日、王宮中が歓喜に湧いた。
ヴァリス将軍の第一子誕生は国にとっての慶事であり、
世継ぎ候補として正式に王命を受けたミレイアは、“祝福された娘”となった。
だが、ルシアにとってそれ以上だったのは、
この子が“愛されて生まれてきた”という事実。
肩書きも、世継ぎという役目も関係ない。
“あなたに会いたかった”
その想いだけで、この命は生まれてきたのだ。
数日後。
ようやく歩けるようになったルシアが、日記を開いた。
『ミレイアへ。
あなたはこの世で最も美しい贈り物です。
あなたを産むまでの道のりは、とても長くて、時に痛かった。
でも、その全部が、あなたに会うための準備だったと思えました。
“あなたの子じゃない”と嘘をついたあの日の私にも、
“信じてる”と微笑んでくれた父さんにも、
今はありがとうしかありません。
あなたが生まれてくれたことで、
私たちは家族になれました。』
ノアが背後からそっと抱きしめてくれる。
「この子がいてくれて、良かったな」
「ええ。すべてが報われたわ」
「……これからも、守る。お前と、この子と」
「もう大丈夫よ。……これからは、三人で守るの」
そして夜が訪れる。
小さな寝息と、静かな時間。
ルシアは、灯りを落とした寝室で目を閉じながら、最後にそっと囁く。
「おやすみ、ミレイア。……生まれてきてくれて、本当にありがとう」




