第1話『遠征前の夜、あなたの愛を信じていた』
「また、行くのね」
窓辺に立つ私の背に、近づいてくる足音がある。
振り返らなくても、誰かは分かっていた。
淡い月明かりが、白いカーテンを揺らしている。
その音をかき消すように、彼の腕が背後からそっと私の腰を抱いた。
「すぐに戻る。三ヶ月もあれば終わる戦だ」
「前回もそう言ってたわよ」
「……あの時より、今回は状況が明白だ」
彼は、私の肩に顎を乗せるようにしてため息を吐いた。
温かくて、少し重くて、安心する。
「心配するな。……お前を置いて、そう簡単に死んだりしない」
「……それでも、怖いのよ」
自分でも気づかぬうちに、胸の奥から言葉がこぼれた。
言ったあと、唇を噛む。
彼に心配をかけたくなくて、笑顔だけは絶やさぬようにしてきたのに。
「ルシア」
名を呼ばれて、そっと顔を上げる。
彼は私の頬に手を添え、真っ直ぐに見つめてきた。
「俺は、お前が帰りを待っている限り、必ず戻る。
だから……どこにも行くな。俺の居場所は、お前の隣だけだ」
その言葉に、私の胸は一瞬だけ、音を立てて跳ねた。
まるで、鼓動が未来を約束されたように――
彼の唇が私のものをふさぎ、私たちは静かにベッドへと倒れ込んだ。
あの夜、私は確かに信じていた。
この人が私を裏切るはずがない、と。
彼が愛しているのは、世界の誰よりもこの私だと。
私たちは夫婦で、伴侶で、ずっと一緒に生きていくのだと――
彼が遠征に旅立った翌週。
私は朝から吐き気に襲われた。
「……ご気分が良くないのですか?」
侍女の心配をよそに、私はただ無理に笑って首を振った。
「平気よ。ちょっと疲れてるだけ」
それでも吐き気は続き、めまいも重なり、日を追うごとに身体はだるくなっていった。
診療所に行くと、医師が笑いながらこう言った。
「……おめでとうございます。ご懐妊ですね」
その瞬間、涙が止まらなくなった。
やっと、やっと彼の子を授かった。
彼の血を継いだ小さな命が、このお腹の中にいる。
どれほど不安でも、寂しくても、これだけは彼に伝えなきゃならない。
(帰ってきたら、真っ先に言おう)
小さくなるお腹に手を添えながら、私は日記帳に毎日のことを書き記した。
胎動もまだない時期だったけれど、体調の変化は目まぐるしく、
それでも彼の顔を思い出すたび、苦しい夜も越えられた。
手紙を書こうかとも思った。
でも、どうせなら直接伝えたい。
きっと、彼はこの知らせに目を細めて、私の手を取って――
(……笑ってくれる)
そして、帰還の日。
あの女を連れて、彼は帰ってきた。
華やかで、無邪気で、彼の腕に絡みつくように笑っていた女。
その日の夜、彼は来なかった。
彼の足音も、扉のノックも、何ひとつ聞こえなかった。
私は泣かなかった。
泣いたら、何かが崩れてしまいそうで――
だから翌朝、私はただ黙って署名を入れた。
離縁状という名の白紙に、自分の名前を。
そして彼の寝室の机に、そっとそれを置いた。
私は彼を愛していた。
でも、信じていたからこそ、あの沈黙の夜はあまりにも残酷だった。
お腹には、命がある。
だから私は、自分だけの意思で決めた。
(さようなら、私の愛した人)