表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/26

第1話『遠征前の夜、あなたの愛を信じていた』

「また、行くのね」


 窓辺に立つ私の背に、近づいてくる足音がある。

 振り返らなくても、誰かは分かっていた。


 淡い月明かりが、白いカーテンを揺らしている。

 その音をかき消すように、彼の腕が背後からそっと私の腰を抱いた。


「すぐに戻る。三ヶ月もあれば終わる戦だ」


「前回もそう言ってたわよ」


「……あの時より、今回は状況が明白だ」


 彼は、私の肩に顎を乗せるようにしてため息を吐いた。

 温かくて、少し重くて、安心する。


「心配するな。……お前を置いて、そう簡単に死んだりしない」


「……それでも、怖いのよ」


 自分でも気づかぬうちに、胸の奥から言葉がこぼれた。

 言ったあと、唇を噛む。

 彼に心配をかけたくなくて、笑顔だけは絶やさぬようにしてきたのに。


「ルシア」


 名を呼ばれて、そっと顔を上げる。

 彼は私の頬に手を添え、真っ直ぐに見つめてきた。


「俺は、お前が帰りを待っている限り、必ず戻る。

 だから……どこにも行くな。俺の居場所は、お前の隣だけだ」


 その言葉に、私の胸は一瞬だけ、音を立てて跳ねた。

 まるで、鼓動が未来を約束されたように――


 彼の唇が私のものをふさぎ、私たちは静かにベッドへと倒れ込んだ。


 あの夜、私は確かに信じていた。

 この人が私を裏切るはずがない、と。

 彼が愛しているのは、世界の誰よりもこの私だと。


 私たちは夫婦で、伴侶で、ずっと一緒に生きていくのだと――


 彼が遠征に旅立った翌週。

 私は朝から吐き気に襲われた。


「……ご気分が良くないのですか?」


 侍女の心配をよそに、私はただ無理に笑って首を振った。


「平気よ。ちょっと疲れてるだけ」


 それでも吐き気は続き、めまいも重なり、日を追うごとに身体はだるくなっていった。

 診療所に行くと、医師が笑いながらこう言った。


「……おめでとうございます。ご懐妊ですね」


 その瞬間、涙が止まらなくなった。


 やっと、やっと彼の子を授かった。

 彼の血を継いだ小さな命が、このお腹の中にいる。

 どれほど不安でも、寂しくても、これだけは彼に伝えなきゃならない。


(帰ってきたら、真っ先に言おう)


 小さくなるお腹に手を添えながら、私は日記帳に毎日のことを書き記した。

 胎動もまだない時期だったけれど、体調の変化は目まぐるしく、

 それでも彼の顔を思い出すたび、苦しい夜も越えられた。


 手紙を書こうかとも思った。

 でも、どうせなら直接伝えたい。

 きっと、彼はこの知らせに目を細めて、私の手を取って――


(……笑ってくれる)


 そして、帰還の日。


 あの女を連れて、彼は帰ってきた。


 華やかで、無邪気で、彼の腕に絡みつくように笑っていた女。

 

 その日の夜、彼は来なかった。

 彼の足音も、扉のノックも、何ひとつ聞こえなかった。


 私は泣かなかった。

 泣いたら、何かが崩れてしまいそうで――


 だから翌朝、私はただ黙って署名を入れた。

 離縁状という名の白紙に、自分の名前を。


 そして彼の寝室の机に、そっとそれを置いた。


 私は彼を愛していた。

 でも、信じていたからこそ、あの沈黙の夜はあまりにも残酷だった。


 お腹には、命がある。

 だから私は、自分だけの意思で決めた。


(さようなら、私の愛した人)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ