第18話『私が嘘をついた日』
その日、ルシアは机に向かって手紙を書いていた。
差出人も宛先もない、けれど確かに誰かに読ませたくて綴る一通。
それは、“あの日の自分”に向けた、時間を超える返信だった。
『私が嘘をついた日』
あれは、雨が降る静かな夜でした。
あなたはまだ王城の寝室にいて、私は震える指で離縁状を書いていました。
赤いインクが、やけに鮮やかだったのを覚えています。
まるで、自分の心臓から流れ出たもののようで――
あなたは来なかった。
遠征から戻ったその日、あなたは私の部屋に来てくれなかった。
その理由を、あのときの私は知らなかった。
“部下の祝宴があった”と知ったのは、ずっと後のこと。
でも、その時の私は知る術がなくて。
ただ、隣に女がいたという事実だけが、胸の中で何度も暴れていました。
“ああ、私の居場所は、もうないのかもしれない”
そう思ったら、体の中が空っぽになったのです。
だから私は、あなたの子を身ごもった体で――
“あなたの子じゃない”と嘘をついた。
本当は、全部分かってた。
あなたが私を裏切るような人じゃないってことも、
私が勝手に怯えて、自分から壊そうとしてるだけだってことも。
でも、信じたかった。
信じたくて、試して、あなたの愛の強さを確かめたくて――
でも結果、私がいちばん壊れた。
あなたが驚いて、泣きそうな顔で立ち尽くしていたのを覚えています。
“違う”と一言で否定してくれたら、私は泣いて許しを乞えたかもしれない。
けれどあなたは、私の言葉を、信じてしまった。
あれが、いちばん苦しかった。
あの夜から何日も、何度も何度も、“あの言葉を取り消したい”と思いました。
でも一度ついた嘘は、簡単には戻せない。
そう思い込んで、私はまた、自分の殻に閉じこもった。
でも。
あなたは、来てくれました。
毎日、雨の中、風の中、陽が落ちた夜も、私の家の前で待っていてくれた。
“他の男の子でも構わない”とさえ言ってくれた。
何も聞かずに、ただ“守る”と決めてくれた。
あの時、私の嘘を見抜いて、それでも責めずに隣にいてくれたこと。
それが、どれだけ救いだったか。
あなたのそういうところが、昔から好きでした。
真っ直ぐで、不器用で、でもいつも“言葉じゃなく、行動で”私を守ろうとする。
あなたの声が、この子に届いて動いたとき、私は思ったのです。
――“ああ、わたしは、もう逃げなくていいんだな”と。
私が嘘をついた日。
それは、私が“愛されたかった”と泣いていた日でもありました。
だから今、ようやく正直に言えます。
あの時の私へ。
怖くて当然だった。疑って当然だった。
でもその先には、信じてもいい人がいた。
“違う”って言わなかったあの人は、あなたを見捨てたんじゃなくて、
“信じてくれたあなたを傷つけまいとして、黙った”んだよ。
だから、今は大丈夫。
あなたが壊してしまったと思っていたものは、
壊れたんじゃなくて、また作り直せたんだから。
私は、今、幸せです。
ミレイア(もしこの子が女の子なら)も、元気にお腹を蹴ってくれています。
そして、夫は今も私の横で、昼寝中です。たぶん寝たふりです。
嘘をついてしまった私へ。
それでも、ちゃんと幸せになれるから。
あなたが見失ったものは、ちゃんと迎えに来てくれるから。
だから、どうか自分を責めすぎないで。
どうか、もう――自分を嫌いにならないで。
あなたを、私は赦す。
ルシア・ヴァリスより。
手紙を書き終えたルシアは、そっとインクを乾かし、
それを便箋に挟んで、自分の日記帳に差し込んだ。
未来、いつかこの子が読んだとしても恥ずかしくないように。
それは“嘘をついたこと”ではなく、“赦しを得たこと”を記録するための手紙だった。
その日の夜。
ベッドの上で、ルシアはそっとノアに寄り添った。
「ねえ、ノア。……ありがとう。あのとき、信じてくれて」
彼は眠たげな声で、答えた。
「お前のこと、信じないで誰を信じるんだよ」
「……ふふ、ほんとに寝たふりだったのね」
「寝られるわけないだろ、お前の声が一番好きなんだから」
その言葉が、ルシアの胸に、静かに降りてきた。
涙ではなく、ぬくもりとして。
あの夜の“嘘”は、今、確かに“愛”に変わっていた。