第16話『「名前をつけて」――初めての贈り物』
初夏の柔らかな風が、寝室のカーテンを揺らしていた。
午後の光は優しく、窓辺に咲いた白い花が、日差しに透ける。
その静寂の中で、ルシアはベッドの上、やや重たげな腹に手を添えて、ノアの言葉を待っていた。
「……じゃあ、俺が名前を?」
「ええ。あなたが“父”として、この子に最初に贈るものにしてほしいの」
ノアは椅子に腰掛けて腕を組み、わずかに眉間を寄せる。
「……プレッシャーがすごいな」
「ふふ。でも、うれしいでしょう?」
「まあな。けど……いざ考えろと言われると難しいもんだな」
ルシアは微笑みながら、静かに頷いた。
「だから今日という日に向けて、わたしは“準備”してきたのよ。あなたが名前をつける、その瞬間をね」
ふたりで“この子の名を考える日”を決めたのは一週間前だった。
医師から「今の時期から、赤ちゃんは両親の声の区別がつくようになります」と告げられてから、
ルシアは少しずつ、“名を呼ぶこと”に意味を感じるようになった。
どこにいても、誰といても、“わたしの名前を呼んでくれる人”――
それは、きっとこの世界で最も安心できる存在。
(なら、その名は、あなたからもらいたい)
「たとえば、どんなのがいい? 候補は?」
「ないわよ。あなたの直感で」
「頼りすぎだろ……」
「だって、私はもうたくさんのものをもらったから。
支えも、信頼も、命も。“次”は、あなたが贈る番よ」
ノアは、ルシアの丸みを帯びたお腹にそっと手を当てる。
そこに宿る命は、時折ぽこりと動いて、まるで返事をしているかのようだった。
「……男の子か、女の子かもまだ分からないけど」
「それでも、きっと“その子の顔”を、あなたは名前にするはずよ」
「……顔も分からないのに?」
「ううん、“あなたが知ってる、この子の顔”よ。あなたがこの子に見ている未来。
その姿を、名前にしてあげて」
ノアは目を閉じ、しばし沈黙した。
長い間、言葉はなかった。
けれど、ルシアは不思議と待てた。
ノアが真剣な顔で考えた時間の重さを、わかっていたから。
やがて。
彼はそっと、目を開いた。
「……ミレイア」
ルシアは、静かにその音を胸に受け止める。
「女の子なら、その名前にしたい」
「……響きが、やさしいわね」
「“奇跡”って意味があるらしい。
……この子が、お前と俺を結び直してくれたから、そう思えて」
「ミレイア……。うん。……とても、いい名前」
ルシアは涙ぐんだ目で微笑み、
そのまま、お腹に向かって両手を添えた。
「ミレイア。あなたがくれたすべてに、ありがとう」
ノアはその様子を見て、静かに言葉を続ける。
「男の子だったら、“リアム”にしたい。
“守る者”って意味だ。……俺たちを、きっと守るために来てくれた子だから」
「リアム……」
「でも、性別なんてどうでもいいよな。
どんな名前をつけても、この子はきっと“俺たちの子”になる」
「ええ、きっと」
その夜。
ルシアは眠る前に、そっと日記を開いた。
『今日は、あなたのお父さんが、あなたに初めて名前をくれた日です。
ミレイア。リアム。どちらでも、どちらでなくても、
それはあなたの未来にきっと似合う名前。
……あなたが生まれてきたその瞬間、きっとわたしは泣きながら、
その名前を何度も呼ぶんだと思います。』
そして、翌朝。
ノアは新しい小さな木箱を持ってきた。
中には、薄く彫られた銀のペンダント――
そこには、ひとつの名前が刻まれていた。
「……ミレイア?」
「“最初に声をかけてあげたい人”が、いつもそばにいられるように」
ルシアはそれを手に取り、涙をこらえきれず笑った。
それは、名前を贈った日。
ふたりが“親になった”最初の確かな証だった。