第12話『ささやかな一夜、ふたりの鼓動』
静かな夜だった。
王命による再婚の儀が済み、貴族の前で正式に“妻と夫”として名を連ねた初めての晩。
ノアとルシアは、久々に“ふたりだけの部屋”にいた。
灯されたランプの下、広い寝室にふたり。
もう、誰の目もない。
誰に何を言われることもない。
ただひとつ、緊張が空気の中に残っていた。
「……なんだか、変な感じ」
ルシアはベッドの縁に腰を下ろしながら、そう言った。
純白の薄手のナイトドレス。妊婦用に作られたそれは、肌にやさしく沿っていて、胸元はそっと開いている。
「どんな風に?」
「……ううん、きっと、幸せになるって決めたのに、
まだどこか“夢じゃないか”って思ってるのかも」
ノアは無言で彼女の隣に座る。
そして、背後から抱きしめた。
「これは夢じゃない」
その低く優しい声に、ルシアの肩がすっと力を抜いた。
「ここに、お前がいて。俺がいる。……それだけで十分、現実だろう?」
「うん……うん、そうだね」
ノアの腕の中で、彼女は静かに目を閉じた。
その鼓動は、穏やかで、安定していた。
「ねえ、ノア」
「ん?」
「私ね……ほんとは、もっと早く抱きしめてほしかった。
あの夜、すぐに。部屋に来て、“ただいま”って言ってくれたら、それだけで良かったの。だから、気を遣わないで。夫婦なんだから」
「……すまなかった」
「今はもう、いいの。こうしてあなたがいるから。でも、無理はしないで?一言、言ってくれれば安心だから」
「わかった、そうしよう」
ベッドに入ると、ルシアはそっと身体を横たえた。
お腹をさすりながら、ベッドの端に手を伸ばすと、ノアがその手を取る。
「この子、今日動いたの。夕方、ぱたんって」
「また俺の声に反応した?」
「ううん……今日はね、王命のことが嬉しかったのかも。
“これでママは安心していいよ”って、言ってくれたみたいに感じたの」
ノアは手を伸ばして、ルシアの腹にそっと触れる。
「……俺も、やっと安心できた」
「何が?」
「こうして、お前とこの子と、同じ場所にいられること」
長いすれ違いを越えて、ようやくたどり着いた“ただの夜”。
それは、どんな祝宴よりも、安らかで静かで、温かかった。
「ルシア、手……こっち」
ノアが優しく手を取る。
そのまま、自分の胸にあてる。
「ほら。ここで、生きてる。……全部、お前のために動いてる」
ルシアの瞳が潤む。
「ほんと、あなたって……ずるい」
「何が?」
「そういうこと、さらっと言うくせに、私を泣かせるの。最近……優しくてずるいわ」
「昔から優しかったぞ。お前が俺の声に耳を貸してなかっただけだ」
「ふふ、それは否定できないかも……」
言葉を交わしながら、ふたりはベッドの上でそっと身体を寄せ合う。
深く触れ合うことはない。
ルシアの体調を第一に考え、ノアはただ腕を回し、額に口づけを落とす。
それだけで、心が満たされた。
そして夜半。
静かに呼吸を揃えていたふたりの間に、ルシアがぽつりと呟く。
「ねえ、ノア……この子、生まれたら、どう育てようか」
「俺は、剣の扱いを――」
「絶対だめ。やさしく、穏やかに、健やかに」
「うっ……じゃあ、読書と花摘み……」
「それもいいけど、パパが怖くなければ、ね」
「……お前、俺のこと、まだちょっと怖いと思ってる?」
「んー、昔のあなたならちょっとね。でも今は……そうね。
“泣き虫なパパ”って感じ」
「泣いたことはないはずだが」
「泣いてたじゃない。屋敷の前で、何も食べずに何日も……」
「……それは……」
「……ありがとうね、ノア。あの時、毎日来てくれて。
私、救われてたの。会わなかったけど、わかってた。いつも外にいてくれてたの」
ノアは、静かに頷いた。
言葉にしなくても伝わる想いが、ふたりのあいだにやさしく流れていた。
ふたりで過ごす夜は、何よりも尊い。
悲しみも怒りも嘘も乗り越えたその先で、
ようやく得られた“ささやかな幸せ”が、心を満たしていた。
翌朝。
ノアはまだ眠るルシアの横顔を見つめながら、そっと誓う。
(どんなことがあっても、お前の隣にいよう)