第10話『誤解の解消』
「俺の子を早く抱き上げたい」
その一言は、どこまでも優しく、そして強かった。
窓辺で風に当たっていたルシアは、振り返る。
そこにいたのは、変わらない軍服姿――けれど、どこか、少し違っていた。
ノア・ヴァリス。
あの夜、遠征から帰ってきたままの姿ではなく、
嘘も怒りも悲しみも、すべてを通り過ぎて、彼女を“もう一度”迎えに来た男の顔をしていた。
「……でも、あの女性はどうするの?」
言葉は棘を帯びていたけれど、声は震えていた。
「そのことだが、誤解だ」
静かに、でもはっきりと告げる。
ルシアの瞳が揺れる。
「じゃあ……なんで、来なかったの?」
「宴が終わったのが遅くて、君が眠っていたから、朝にしようと思ったんだ」
「一言くらい欲しかった。あの女が隣にいて、私の部屋には来なくて。
……どんなに信じようとしても、信じきれなかった」
ノアは歩み寄り、ルシアの目の前で膝をつく。
「ごめん。全部、俺の責任だ」
「全部じゃないわ……私も嘘をついたから……」
「……それでも、俺は、もう一度お前を迎えに来た。
離縁状も、噂も、お前がついた嘘も、全部知ってる。
それでも――お前とこの子に、これからの人生を懸けたい」
沈黙。
ルシアは口元を震わせながら、そっと両手でお腹を抱えた。
「……この子が動いたの。あなたの声が聞こえたとき」
ノアの目に、涙がにじむ。
「俺の子だって、教えてくれてるんだな」
ルシアは首を横に振った。
「違うの。……この子はね、“あなたを信じていい”って、教えてくれたのよ。
私がどんなに意地を張っても、この子は、あなたの声に反応してくれるの」
ノアはゆっくりと立ち上がり、そっと彼女の腹に手を添えた。
「……ただいま、ルシア。……そして、はじめまして、俺の子よ」
その夜、久しぶりにルシアの寝室にはランプの灯りが灯った。
ふたりで並んでベッドに腰かけ、窓の外を見ながら話をした。
「再婚の手続きを、王城に出した。王命もすでに通ってる。
あとは、お前の意思次第だ」
「こんなにも周りに迷惑をかけたのに、あなたの妻であることを、もう一度選んでいいの?」
「何度でも。……俺は、今度こそ、お前を一度も疑わない。何があっても、お前の味方でいる」
ルシアは少し涙を浮かべながら、微笑んだ。
「……もう一度、あなたの妻になることを許してもらえる?」
そして、お腹に手を添えて続ける。
「そして、あなたの子を産むことを」
寝台の上、ふたりは向かい合って静かに指を重ねる。
もう言葉はいらなかった。
心と心が、少しずつ繋がっていく音だけが、そこにあった。
翌日、王都に発布された一通の公告が、噂を塗り替えた。
『将軍ノア・ヴァリスと、その正妻ルシア・フィーレンは、
再び正式に婚姻関係を結び、子を授かったことを公表する。
今後、両名とその子は王家の後援を受けるとともに、名誉を保持されるものとする』
“捨てられた妊婦”という誤解は、きれいに覆された。
そして王都の人々は、誰からともなくこう語り始める。
「将軍様、実はずっと通い続けてたらしいわよ。毎日」
「“違う”って言われたのに、信じ続けたんだって」
「なにそれ、めっちゃ良くない!? なんか泣けてきた……!」
ルシアは庭先のベンチに座り、手紙を書く。
『あの日、嘘をついてごめんなさい。
でもあの嘘のおかげで、私は本当に大事なことに気づけました。
あなたの愛は、たった一度の誤解では消えなかった。
だから、これからはちゃんと伝えます。
あなたを信じることを、この子と一緒に、毎日積み重ねていきます』
そしてその夜。
ふたりは、改めて向き合い、言葉を交わす。
「……ノア。今度こそ、本当の夫婦になれる?」
「もう、何度目だって言ってやる。
――俺の妻になってくれ。これからも、ずっと」