第9話『――兄の告白』
「……子供は無事君の子供だったわけだが」
エリオット・フィーレンは、静かに、しかし確信を込めて言った。
ソファの向かい側で座るのは、ノア・ヴァリス将軍――妹の夫。
会話のきっかけは、意外にも穏やかな一言だった。
「目に入れても痛くないほど可愛い妹だ」
ノアは目を伏せて、苦笑する。
「……だが、同じくらいに君のことも大切な弟だ」
「恐縮です」
「俺の中では、婚姻の形なんてどうでもよかった。
ただ、ルシアが笑ってくれるなら、それでいいと思っているんだが」
その言葉に、エリオットの胸がじんわりと熱くなる。
兄は妹の人生に「信じられる大人」がいなかったことを振り返る。
両親からは疎まれ、使用人からは距離を置かれ、兄である自分すらも守りきれなかった。
だからこそ、若くして結婚すると聞いたときは反対こそしなかったが、心配していた。
(この男に、妹の“全部”を受け止めるだけの強さがあるのか)
そして今。
ボロボロに傷つけ合ったふたりが、それでもなお隣に戻ろうとしている姿を見て、
間違いなく妹は「選んでよかった」と思える男と出会ったのだと感じていた。
「君の子だと、してだが」と、改めて言葉にする。
「……妹は自分の体調の変化を記録していた。
妊娠に気づいた日から、吐き気も、目眩も、全部書き留めていた。
俺も何度も読み返してみたよ。
それで医師にかかって……、1人心待ちにしていたその翌日には、お前が女を連れて帰ってきた」
ノアは黙って聞いていた。
まぶたを閉じ、こめかみを押さえ、やがて絞り出すように言った。
「俺は……あの夜、ルシアを起こすまいと部屋に行かなかった。
でもそれが間違っていた。祝いの席に顔を出して、それで“明日話せばいい”と思っていた」
拳をぎゅっと握る。
爪が掌に食い込み、赤くなっていた。
「ルシアが、あんなに不安でいっぱいだったなんて、まるで気づかなかった」
「そうだな。……でもそう気づいてから、お前は逃げなかった。
毎日来てたな。毎日立って、待ってた。
あれは見ていて、俺の方が泣きそうだった」
「……あんな嘘を聞かされてもまだ信じたいって思った。
“違う”って言われても、“違わない”って思ってた。
……ただ、信じていたからこそずっと……待ってた」
しばらく沈黙があった。
エリオットは、ふっと立ち上がり、窓際へ向かう。
そして、窓の外で花に水をやる妹の姿を見つける。
穏やかな表情だった。
けれど、どこか“終わり”を覚悟した人間にしか持てない静けさがあった。
「ルシアはな、“信じる”ってことに、臆病なんだよ」
「……ああ」
「子供の頃からずっとそうだ。
家の中で一番感情が深くて、一番繊細だった。
……そして、誰よりも怖がりだ」
だからこそ、裏切られたと思ったときに、逃げてしまう。
「お前が来なかったあの夜。どれだけ混乱しただろうか。
“信じようとした自分”を恥じて、憎んで、それで嘘を吐いた。
……でも、そんな妹が今、もう一度君を求めている」
ノアは、言葉もなく頷いた。
信じてくれなかったことが悲しかった。
けれど、けれど怖くてそれができなかった彼女を、もっと悲しませたのは自分だった。
なら、これからは。
たとえ誰に疑われようと、ただ真っ直ぐに信じ抜く番は、自分だ。
その夜。
ルシアの部屋の扉をノックする音がした。
「……ノア?」
「うん。いいかな、少しだけ」
小さく扉が開く。
「今日も来てくれたのね」
「……今日だけじゃない。これからもずっと、来るよ。
君が俺の元に戻ってきてくれる日まで、毎日」
ルシアは小さく微笑んだ。
「……じゃあ、少しだけ、お茶でもいかが?」
穏やかな時間が流れた。
ティーカップを揺らす音だけが響く。
そして、ふいにルシアが小さな声で言った。
「ねえ、ノア。……ありがとう。そして、ごめんなさい」
ノアはそっと微笑んで、言った。
「ルシアが謝る事などなにもない。俺はずっと、お前の味方だ。お前が俺を信じられなくても、俺がお前を信じてる」
その言葉に、ルシアは堪えきれず涙をこぼした。
ようやく、自分の心も許された気がした。
あの日、ついてしまった嘘も、ひとつひとつ解けていく気がした。