プロローグ
大広間の扉が開き、歓声とともに夫が帰還した。
軍装に身を包み、戦勝の誇りを纏った彼の姿に、私は思わず涙ぐみそうになる。
生きて帰ってきてくれた――
それだけで、ずっと待っていた意味があると思っていたのに。
彼の隣にいた“その女”が、すべてを壊した。
「閣下ってば、本当に無理しすぎですよぉ〜」
男の袖にしなだれかかるように甘えた声。
明るく笑う、無遠慮な馴れ馴れしさ。
私はただ見ていた。
彼の眉が少し曇ったように見えた。だが、拒絶は……なかった。
それだけで、私の中の何かが、ふつりと音を立てて切れた。
(そういうこと、なのね)
お腹の奥で、温かな命がぴくりと動いた気がした。
伝えようと思っていた。
遠征前の夜に、確かに交わした愛の証を。
でも、その夜。彼は私の部屋に来なかった。
朝焼けが窓を照らす頃、私は静かに筆を取った。
白紙のままにしておいた“あの紙”に、署名を入れる。
細く、確かな筆致で、自分の名前を書き込んだ。
そしてそれを、寝室の机の上に置いた。
一言のメモも添えずに――
「離縁状」
それだけが、彼へのすべての返事だった。
「奥様っ、どこへ……!」
侍女が慌てて追いすがる。
私は微笑んで、少し首を振った。
「実家に、少し。……報告は要らないわ」
荷馬車の扉が閉まり、城門が遠ざかっていく。
私は、お腹に手を添えて、静かに目を閉じた。
(あの人が戻った夜、私の部屋には来なかった――それが、すべて)