髭(ヒゲ)で佳菜子を描く
恋愛は美しいものだと世の中が謳っている。
挑戦は素晴らしいものだと成功者が囃し立てている。
ならばこれは。
この愚かな試みは美しく素晴らしいものとなるだろうか。
中学三年生の四月七日。
クラス替えの日に、僕は七瀬佳菜子を初めて見て。
その、世界全てと戦うような表情を見て。
『髭で佳菜子を描こう』
そう、決意した。
-◇-
髭。ひげ。ヒゲ。
一口に髭と言っても、それは様々だ。
鼻の下から上唇の真ん中あたりに生える髭は、基本的に細く弱い。
対して、上唇の半ばから端のあたりは太く、毛根が強いものが多い。ただし、長さを伸ばそうとすればたちまち虚弱な細い髭となるので注意が必要だ。
伸ばせば弱くなる。これは全ての髭に共通する課題であったが、とりわけ上唇の髭はその傾向が強かった。
基本的にこれら上唇の髭は薄く印影を付けるために用いる。
頭の中で描いた完成図通りに、美しい佳菜子の横顔。その首元の陰るあたりなどにそっと添えていくのだ。
髭はうまく引き抜いたとき、その根元にわずかな球体の膨らみを備えている。
それは粘着力を有しており、ノートにそっと置くと貼り付くのだ。存外その力は強力で、貼り付けた髭をざっと手で払ったくらいでは球体のみが残ってしまうほど。
つまり一度髭を貼り付けてしまえば、そっとノートを閉じたりしまったりするくらいなら佳菜子の横顔が乱れることはない。
さて、メインの線に用いる髭。つまり、別の場所に生える髭について触れよう。
比較的強い髭。
それはもみあげの先から頬に至る場所の髭である。
髪との境界が曖昧なそれらは、やはり生まれ持った潜在能力が高く、黒々と力強い髭が多い。
これらはすらっと美しく伸び、また同時に柔らかさを伺わせる佳菜子の横顔。その輪郭に用いていく。
この辺りの髭を抜く際には、まれにその毛根の周囲を囲む、わずかに白く色づいた透明な物質も付いてくることがある。
これらも粘着力を有するのだが、佳菜子の横顔を描くうえで、その白は不要である。
しかし、白を取り外すことは至難の業だ。
白は、球体を含む根本に強く引っ付いていて、外そうとすれば根本ごと傷ついてしまう。これで、何本もの良い髭が犠牲になった。
つまりこのように白が付いてきた場合、やることは一つ。
そうっと左右に割るように白を取り除き、かつ濃い黒の玉を押しつぶして佳菜子の艶めく黒の瞳に充てるのである。
こうしてやれば、痛みやすい髭の中央から先を取り除くとともに、白に包まれた、艶めく強い黒球を有効に活用できるのだ。
そして佳菜子を描くうえでけして外してはならない存在。それはあごひげであるとともに、その周囲、つまり顔の両下端から首の中央あたりに生える髭である。
これらは強い。
剃ったばかりの髭を皮膚から掘り出して使えば、短いが真っ直ぐな素材として扱える。これは切れ長の瞳の端を描くに適していた。
そして2日目、3日目に至ったとしても、この辺りの髭は弱りきることが少ない。
太さ、黒球の強さがまちまちになるが、長い髭を得ようとするなら育つまで待つことが最適な選択肢となる。
長い髭。それは美しく流れる佳菜子の睫毛を描くためなどに用いた。
基本的には短い髭の組み合わせにより佳菜子の横顔は描いていくわけだが、やはり可能であれば毛特有の流れるかたちを有効に活用したかったのである。
そしてごくごくまれに獲れる髭。
僕が『龍の髭』と呼ぶそれは長く、そして太く、艶めく黒を放つ。
『伸ばせば弱くなる』
この基本原理になぜ『龍の髭』は抗うことができるのか。なぜこのような存在がこの世にあるのか。
その疑問は『龍の髭』が獲れる前に感じた感触で晴れることとなった。
指で触れた『皮膚の下にあるひとすじの何か』。強く押せばわずか動き、けれどけして大きく動き回ることがないもの。
そう、つまり『龍の髭』とは皮膚の内側に潜むものであり--そのなかでたっぷりと保湿と栄養を受けて育った髭であったのだ。
艶めく黒の長い髭。
それで描くものは、佳菜子の肩口まで伸びた美しい黒髪に他ならない。
流れる髪のその外側。それこそが龍の髭を用いる場所であった。
-◇-
そうやって僕は髭で佳菜子を描いていく。
学校から帰るたびに。或いは学校が休みの日のたびに。
両親から買い与えられた高級な勉強机をアトリエにして、密やかに佳菜子は紡がれていく。
髭を抜くこと。それはわずかな痛みを伴っていたけれど、佳菜子を描く喜びは比較するのもおこがましいくらいに大きくあふれていた。
日々描かれていく佳菜子は、元が穢れた僕の髭とは思えないほどに美しかった。
これを愛とは呼びはすまい。
七瀬佳菜子が自己紹介の際に見せた一瞬の横顔。『佳菜子』はそれを表すためのものだから。
七瀬佳菜子によるものであってもこれは七瀬佳菜子ではない。己に生じた形容しがたき衝動を放つものであるならば、これは一方向の自慰行動に他ならない。
七瀬佳菜子とは一言も話したことはないのだから。
そのような毎日を繰り返し、六月の半ば。
梅雨の入り。
鬱屈と湿る日々の中で、佳菜子は完成した。
玲瓏にして孤高。
無機質な表情にして、柔らかな丸みを備える横顔。
自らが感じた情動のままに生み出されたそれはどこまでも美しく。
僕は満足のまま眠りについた。
それが崩れたのは次の日のこと。
七瀬佳菜子が僕の消しゴムを拾い、僕に渡した。
ただそれだけで。
僕は僕でなくなっていく。
-◇-
音楽。小説。映像。
そして絵画。
創作物として存在するそれらは単体で完結するだろうか。
その問いに『完結する』と僕は考えていた。
商業的な一切を考えず、真に自らの衝動によって為されたものであるならば、それを心残りなく全て出し切れた時点で『完成』であり、それすなわち『完結』なのであると。
僕はそう考えていた。
けれど。
縁ができた。
ただそれだけで、僕は僕の『佳菜子』を七瀬佳菜子に見てほしいと。
そんな愚かな望みを抱いてしまう。
そして僕は同時に白痴ではなく、無明でなく。『対話』がその中身ではなく、何者が語るかによってその価値が変わることを知っている。
完成した『佳菜子』を見る。
ひたすらに先を見据える佳菜子の瞳。それは教室の黒板を抜け、遥かな先に向けられているに違いない。
言葉を紡ぐ、その刹那の前。柔らかな丸みを帯びた唇の合間に息を吸い込んで。中学最後の一年間を戦う鬨の声をあげるのだ。
孤高の佳菜子。美しいもの。
けれどそれを描くものは髭だ。
結晶化した僕の情動の極地なのだ。
七瀬佳菜子はきっと。『佳菜子』を美しいとは思わない。
創作物が『対話』であるという意見に立つならば。七瀬佳菜子が『佳菜子』を美しいと感じるように願うならば。
僕は『対話』の相手として彼女に望まれるものにならなければならないだろう。
たとえそれが過剰を削り、不足を足すことだとしても。『佳菜子』を再び作れないほど、普通に適応することだとしても。
視線を落とす。けれど視線が交わることはない。
『佳菜子』はずっと遠くを見ていた。