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エートス 風の住む丘  作者: 萩尾雅縁
XIII お茶会へのご招待
98/99

97.カリギュラ効果なんて知らなかったんだ

 落ち込んでいるショーンを引きあげようと「ゲールが、屋根裏部屋に来てるかもしれない。彼に尋ねれば、お母さんの行きそうな場所を知っているかもしれないよ」と提案してみた。

「だめだ」押し殺した低い声で、ショーンは首を振った。「あいつには言えないよ。ジニーを助けることはできない、って言ったのはきみだぞ」

 言われてはっとした。

  ジニーがどんな形で失われるのか判らない以上、今の時点で幼い彼女の命を握っているのはゲールのお母さん、なのだ。

 これでは下手にゲールを巻き込むわけにはいかない。彼は見ず知らずの僕たちにも親切にしてくれた優しい子だ。ジニーの身に起きることを知れば、幼い彼の柔らかい心を傷つけることになるかもしれないじゃないか。そのうえ、彼のお母さんに責任がかかりかねないなんて。


 はぁ、とショーンが深いため息をつくのが聞こえた。

「自分が信じらなくなってきた。12年前に証言した記憶が嘘偽りで、今になって()()を思い出すなんてな」

 そうだろうな、と僕は頷いた。

「僕たちがここへ来て12年前のきみたちに出逢ったから、なのかもしれないよ」

 え――、という顔をしてショーンは僕を見つめた。

「過去が変わって、それに沿った記憶が今のきみに植えつけられたのかも」

 ゴクリとショーンの喉が動く。

「それじゃ、過去は変えられるってことなのか?」

「変えられない」

「言ってることが変だよ、コウ。過去が変わったから、今まで一度も思い出したことのない、あるはずがなかった記憶が生まれたんだって、そういう意味じゃないのか?」

 僕は黙って頷いた。

「だから――、過去は変えられるんだな」

「すぐに忘れてしまえるような些細なことなら、できると言えるのかもしれない。だけど、人の生き死ににかかわるような大きな出来事は無理だよ」

「どうして?」

「もし仮に、ジニーが行方不明になるのを防ぐことができて、ぶじお母さんと逢えてロンドンに家族揃って帰れたとするだろ。そうなった時点で、今のきみの中に、別の個人史、彼女と共に成育してきた12年の歴史が生まれることになる。そして、今のきみの成育記憶は現実ではなくなるんだ。だけど普通、人はそんな膨大な()()()()()()()記憶に耐えられないよ。自我が壊れてしまう」


 そう、アルのお父さんのように――


 ショーンはきつく眉根を寄せて黙り込んでしまった。


 当然な反応だと思う。これまで彼を苦しめてきたジニーを失った時の記憶が、いとも簡単に自己弁護のための嘘ということに塗り替えられてしまったのだ。それなのに、肝心の()()()()に繋がる糸はプツリと切れてしまっている。


「それでも、ジニーを助け出すことができるなら、」

 苦し気に絞り出した声が僕に懇願しているみたいで。

「できない。ここは現実じゃないんだよ、ショーン」

 応えられない僕は、酷く冷淡な人間のようで。

「俺の過去だろ。それだって現実じゃないか。こうやって生きている。ジニーだって――」

「僕たちがいるこの世界は――」


 現実じゃない、ショーンの人生の分岐点に舞い戻って来ているというだけだ。

 もしも、このまま大きく運命を変えることなくやり過ごすことができたら、僕たちは元の現実に帰ることができる。けれど、これ以上ジニーの運命に触れ、大きく変えてしまったら、ショーンは、アルのお父さんのように、この精神世界から抜け出すことができなくなってしまうかもしれない。

 今でさえ、彼らとかかわってしまったことから生まれた記憶に苛まれ、翻弄され始めているのに。


「初めに約束したじゃないか。助けることはできない、それでもいいかって」

「だけど、目の前にいたんだぞ。記憶よりずっと小さくて、か弱くて。ついさっきまで、この腕で抱き上げて、俺の膝の上にいたのに」

「ショーン」


 彼を睨みつけて首を横に振った。

 ここがどこだか見当がついた以上、これ以上ショーンに道を踏み外させるわけにはいかない。


「きみはもう一度彼女に逢うことができた。それで諦めをつけるわけにはいかない?」

「ここまで来て――」

「マーカスの部屋も見つけた。ゲールのいる場所も目星がついた。もう、ここにいる必要は、」

「帰るっていうのか、ジニーを見捨てて!」


 立ち上がって僕を怒鳴りつけたショーンの手が、ぐっと強く握られ僕の目の前で震えている。一瞬、その(こぶし)が僕の上に振り下ろされるのではないか、と恐怖が走った。だけど、彼は固く拳を握ったまま動かなかった。


「ショーン、アルのお父さんの話をしようか」

「聞きたくない。今は悠長にそんな話をしている場合じゃないだろ」


 吐き捨てるように言って、彼は僕から視線を逸らした。判っているのだ。彼はちゃんと判っている、僕がなぜこんなことを言いだしたかってことを。


「それじゃあ、――さっきの話の続きをしよう。きみの記憶のどれが未来に繋がるか探そう。もう一度だけジニーを探そう。でもその前に、ここへ来る前にきみが僕に約束したことを思い出して、もう一度約束してほしい」


 



カリギュラ効果:他者から行為などを強く禁止されると、かえって欲求が高まる心理現象(Wikipediaより)

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