94.思い出せなかった思い出
途端にスペンサーがドアまでひとっ飛びに跳んだ。うやうやしくドアを開けると、そこには見知らぬ女の人が立っていた。彼女が誰だかすぐに判った。こんな鮮やかな赤毛はそういないもの。後姿だけ見かけたことがある、ゲールのお母さんに違いない。ショーンの言う通り、ぱっと目を引く派手な顔立ちの美人で、いかにも占い師といったイメージのフード付きの黒いドレスを着ていた。
彼女は物珍しげに部屋の中をきょろきょろしていたので、ショーンが「やあ!」と声をかけた。彼女は彼に気づくとほっとしたように頬を緩めた。
「あんたもいたんだ。とんだ災難だったね! お嬢ちゃん、それ、うちの子のお古なんだ。よく似合ってるよ。あげるからそのまま着て帰っていいよ」
華やかな笑顔がまずショーンに、そして優し気な目許が細まって、彼の膝に座っているジニーに向けられた。
「ああ、ゲールのお古なのか! 道理ですぐに着替えがでてきたわけだ」
「この子たちのお母さん、うちで鑑定していたのよ」
「鑑定? ああ、占いの?」
一瞬怪訝そうな顔をしたショーンだったが、すぐに腑に落ちて愛想笑いを浮かべた。だけど僕の方は彼のようには納得できなくて。
「もう終わったのかい?」
「ええ、だから迎えにきたのよ。さ、あんたたちのママが待ってるわ」
部屋に入ろうとした彼女の前に、スペンサーがぐいとでっぷりとした体を盾に立ちふさがった。
「少々お待ちくださいませ。ただいまご用意いたしますとも!」
言い終わると同時にくるっとターンして、彼はするすると滑るようにテーブルを一回り。
「さぁ、どうぞ。お土産にお持ちになってくださいですとも!」
ジニーの前でぴたりと止まった時には、ピンクのリボンのかかった水色の箱を掲げ持っていた。皿の上の焼き菓子が半分になっているから、消えた分はきっとその中に入っているのだろう。
ジニーはお菓子の箱をじっと見つめはしたが、ショーンの胸にべったりとくっついたまま離れようとしなかった。ショーンが「ジニー、ほら、ママが待ってるって」と声をかけても黙ったままで。
「こら、ジニー! 行くぞ!」
いきなり罵声が飛んだ。小さい方のショーンだ。目を吊り上げて、口をへの字に曲げて怒っているのが見て取れた。彼の手が伸びて、ジニーの肩を掴んで乱暴に引き剥がそうとする。と、ジニーは「いやー!」と金切声を上げて泣き叫んだ。腕はショーンの首にしがみついたまま、小さなショーンを近づけまいと脚をばたつかせて蹴っている。
「いやなの! いかないの! きらい! あっちいけ!」
「いいかげんにしろよ!」大声で言い放ち、ぐっと彼の小さな拳が握られた時、ジニーを抱えたままショーンが立ちあがった。彼は戸口に向かってすたすたと歩き出す。
「ほら、そこまで送ってってやるから」
ジニーはべったりショーンにくっついて泣いていたのに、戸口まで来るとすんなりゲールの母親へと抱き移された。僕は苦虫を潰したような顔をして立っている小さなショーンに微笑みかけて、その頭をそっと撫でた。
「きみはえらいね」
彼にぎろっと睨み返された。
慌ただしく彼らが去って、僕は深々と息をついた。
僕は小さなショーンをかえって怒らせてしまったのかもしれない。ショーンの前で余計なことを言ってしまったかもしれない。そう考え出すと落ち着かなかった。
だけど本当にそう思ったんだ。これまでショーンから聞いていたジニー、まだ三歳の彼女の世話をすることが、こんなに目まぐるしくて大変だとは思わなかったから。正直、子どもたちがこの部屋からいなくなったことで、僕はほっとしたのだ。
「追いかけなきゃね」
自分に失望し動揺している不甲斐なさをショーンに悟られたくなくて、誤魔化すような苦笑を浮かべた。
「そうだな」
なんともやりきれないような顔つきで呟き、彼は頷いた。
「僕はきみが――」
ん? とショーンが小首を傾げる。
言うつもりはなかったのに。彼のこの顔を見たら、口から零れ落ちていた。
「僕はきみが、運命を変えるためにジニーを離さないんじゃないかと思った」
「そうか、そういう手もあったな」
はは、っとショーンは乾いた笑いを漏らした。
「ぼんやり思い出してたんだ。俺はここに来たことがある。だからきみのことも、初めて逢った時からあんなに惹かれて好感を持ったんだな、って。すっかり忘れてたのに、心の奥の方に染みついてた。忘れたわけじゃなかったんだな。やっと礼が言えるよ、ありがとう、コウ」
何に対してお礼を言われているのか――
ぽかんとしてしまった僕を見て、ショーンはにかっといつもの彼らしい顔で笑った。
「俺はさ、あの通り乱暴で喋るのも下手な鼻持ちならないガキでさ、ジニーの世話をさせられるのだって、嫌でしかたがなかったんだ。あいつはあの通り我がままで言うこと聞きゃしないだろ? だけどあいつの子守りは俺の役目って決まっててさ。言われた通りやってんのに、今みたいに何かしでかしたら怒られるのは俺。何もなくたって褒められることもなくてさ。だから、初めてだったんだよ。テーブルを汚したのに怒られずに、ありがとうって言われて、えらいって、褒められたのなんて」
「きみはすごいよ。あんな小さいうちから――」
これまでだって、駄々を捏ねている子どもを見たことはある。そのどれもが僕には他人事だった。だけど、彼にとっては違った。小さなショーンは、ジニーが何か粗相をしないかとずっと緊張していた。僕たち大人がいるのに手を借りようともせず、何もかも自分でしようとしていた。そうすることが当たり前のように。むしろ、煩わせるな、と躾けられているかのように。
湧きあがったそんな疑問を口に出すのははばかられて、きゅっと唇を噛んだ。不用意な言葉で彼を傷つけることがないように。
「行こうか。スペンサーはどっか行っちまったみたいだしな」
クソッ、とショーンが呟いたような気がした。
そうだった、感傷に浸っている場合ではない。そろそろマーケットクロスに戻らなければ。ここにスペンサーの部屋があると判った今、ゲールを取り戻す道筋はついたと考えていいと思う。
また後で戻ってくればいい、最後までショーンの想いを見届けてから――




