92.ご用意できていますとも!
「おやおや、まぁまぁ、コウさま、どうなされたのですか!」
聞き覚えのある声に背中がシャキリと反り返る。同時に涙も引っこんでしまった。というのも、見慣れた深緑のフロックコートからぐいと伸ばされた首が僕を覗きこみ、両手で白いハンカチを差しだしているのだもの。僕はハンカチは無視して、「それを訊きたいのは僕の方だよ。どうしてきみがここにいるの、スペンサー」と、心配そうに寄せられた眉の下の黒々とした瞳を見つめ返した。
「お待ちしておりましたとも! わたくしめがお待ちしておりましたとも! コウさまがこちらにいらっしゃるので、首を長くしてお待ちしておりましたとも!」
声が上の方から降ってきた。感極まったのか、スペンサーの首がぐんぐん伸びてしまっているのだ。
分ったから、それ以上首を伸ばすのはやめてほしい。気持ち悪い。
つい、そんなことを思ってしまった。
と、ずんずん伸び続けていた首がぴたりと止まり、しゅるしゅると縮んで元の位置に収まった。スペンサーは乱れた首元が気になるようで、くいくいっと頭を左右に振りながら幅広のタイの形を丁寧に直している。
「あ、ネクタイ変えたの? アスコットタイだね、綺麗な黄色、似合ってるよ」
「ありがとうございます! ありがとうございます、コウさま! よくぞ、気づいて下さいました! さすが、コウさまですとも! 」
彼の黒目勝ちの目にぶわっと涙が溢れでた。スペンサーは僕に差しだしていたハンカチで、右、左と交互に涙を拭いながら、新しいタイについて喋り始めた。けれどすぐに「なぁ、コウ」と、ショーンに肩を叩かれ、僕はもうスペンサーのお喋りを聞いてはいられなくなった。「どうなってるんだ?」と訊かれてもどうにも応えようがなくて、僕は頭を振った。
ここに足を踏み入れた時、空気が違うのは気づいたんだ。もしかするとドラコが来るかも、とは過ったけれど、まさか彼がいるなんて思いつきもしなかった。
ショーンは僕から目を逸らし、腕組みをしてどうするべきかを考えているようだし、子どもたちは石にでもされたかのように固まったままだ。僕は子どもたち――、ポカンと大口を開けてスペンサーに見入っている小さなショーンとジニーに、この状況を説明しなきゃ。
僕の方こそ、どうなっているのか知りたいのに。
「そうですとも、そうですとも!」スペンサーがいきなりピシャンと手を打ち、ネクタイの自慢話を打ち切った。「コウさまは、このスペンサーめにお尋ねになられたのですとも!」
我に返った彼は「どうぞ、どうぞ、皆さま、お茶のご用意ができておりますとも!」と深々とお辞儀して言った。指先まで伸ばされたスペンサーの手のひらは、パワーストーンの店に向けられていた。
大小さまざまな天然石が器に盛られたテーブルや、それらが美しく加工されたアクセサリーケースの横をすり抜けるようにして、僕たちは二階の部屋へと通された。
螺旋階段を上がってすぐの扉はアールヌーボーのような凝った装飾で、流線で縁どられ、歪曲した金鳳花の意匠が華やかにレリーフされている。けれど、それ以上に目を引かれたのはドアノブで、まるで握手を求めているような右手がドアにくっついていた。
「さぁ、どうぞ、どうぞ、コウさま」と、スペンサーが両手でそのドアノブを指し示している。ということは、彼はこのドアを開けてはくれないのか。
僕がしなくちゃいけないのか、とごくりと唾を呑み込んでから手を伸ばした瞬間、ショーンの手がそれを握ってぐいと押した。
ガチャリ、とドアが開く。
「え、サンルーム――」
外からはそんな外観には見えなかったのに、部屋にはガラス張りの丸天井から陽の光がさんさんと降り注いでいる。鉄製の支柱には緑の蔦が絡まり下がって、さながらジャングルのようだ。その真下に、金糸で縁取り刺繍のしてある深緑のクロスのかかった円形テーブル。その上にはティーセットが用意され、焼き菓子の盛られた大皿がのっている。
「どうぞ、おかけください、コウさま」
スペンサーが椅子を引いてくれた。椅子の数は4つ。その椅子を次々と引いて、順番に腰かけさせていった。まずジニー、それから小さなショーン、そして、その様子を黙ったまま眺めていたショーンも。
子どもたちを、ここへ連れてきてしまってよかったのだろうか――
そんなことも考えられないまま、僕たちはハーメルンの笛吹にでも先導されるように、ここまでついてきてしまっている。
「なぁ、コウ」と、ショーンが顔を寄せてきた。視線がドアから出て行こうとするスペンサーを追っている。そういえば、お茶の用意をするとかなんとか言っていたっけ。「あの壁紙を見ろよ。この部屋、ここが俺たちが目指していた部屋じゃないのか?」
えっ、とショーンの視線の先に目を凝らす。アールヌーボー調の壁紙は小さな黄色の花柄で、金鳳花のように見える。けれど、ゲールがいたのはこんな部屋だっただろうか?
「どうだろう? こんな感じだったっけ?」僕は自信がなくて小首を傾げたけれど、ショーンは深く頷いた。
「そうだよ。スペンサーの部屋だったんだな。彼はどこにいるのか訊いてみたらどうだい? きみにならあいつも正直に応えるんじゃないかな」
「うん、でも、」
僕ははっきり応えないまま、黙ってしまった。
ここにゲールがいるとするなら、ヴィーの言ったことは嘘だったのだろうか? それとも、ヴィーとスペンサーは以前からの知り合いだったのだろうか。判らないことばかりだ。
突然「こらっ、」と声を殺した小さな声がした。誰もが黙ったままの静まり返った部屋だったから、その声は小さくとも僕とショーンの視線を集めてしまった。
そこでは小さなショーンが、頬をもごつかせる妹の腕が大皿に伸びるのを止めているところだった。




