90.箱庭の中で
「僕は、あちら側――、アルのお父さんの作り出した世界の内に囚われていただろ」
そこまではショーンにも話してある。その時の僕を解放するために、彼はアルと共に尽力してくれたのだから。
「そこではアビー……、アルのお母さんとずっと一緒だった」
ここからがアルには話し、ショーンには告げていないことだ。アルは彼には、白薔薇のなかで眠らされていた僕を見つけて摘み取ったことで、目覚めさせることができたと、そう話しているはずだ。
「アビゲイル・アスターと? それは、アルの親父さんの妄想の奥さんって意味……じゃないよな、彼女の魂ってことかい?」
眉を潜めたショーンの驚愕の眼差しが居た堪れなくて、避けるように瞼を伏せて、僕は「うん」と頷いた。
「彼女はずっと運命を変えようと、あの館で、いろんなことを試みていたんだ。それに、アーノルド自身も」
「本当に囚われていたってことなのか! それで、彼が何だって?」
「彼もまた、自分が編んでしまった運命を変えようとあがいていたんだ」
「彼が? でも――」
ますます深く眉間に皺をよせ、ショーンは考えこむように上を向いた。だがすぐに、頭の中の想念を振り払うように首を振って僕を見つめ直した。
「運命を変えるって、彼は、何をしていたんだ?」
そして、ここからが、アルにはかいつまんでしか話していないことになる。それ以上を知りたいなら、彼には話さないと約束して欲しい。
僕がそう言うと、ショーンはまた訝しそうな眼つきで僕を見たけれど、「分かった」と強く頷いてくれた。
「アビーも、アーノルドも、精霊との契約によって成就した呪を破ろうと、いろんなことを試したよ。――それに、僕にしても」
僕もまた、彼らを助けたくて、それ以上にアルを助けたくて、過去を変えようと奔走したのだ。あの出口のない箱庭のなかで。
「どこから話せばいいだろう――」
僕は僕自身の記憶をパラパラと捲り、どう伝えればショーンに分かりよいかと思案した。できることなら、私的な、とても私的な彼らの心の内の真実を誰にも明かさず、僕一人の心のうちにしまっておきたかった。アルはそんな僕の心情を汲み、深く尋ねないでいてくれた。だけど、この世界の規則を前もって知ることが、ショーンがこれから身をもって体験することになる衝撃のクッションになるのなら、アビーも、アーノルドも許してくれるのではないかと思う。それでも――
はぁ、と呆れたような、それでいて悲嘆にくれたようにも聞こえる大きなため息を横でつかれ、神経がびくりと反応した。彼は僕の準備を待って沈黙してくれていると思っていたのに、勘違いで苛つかせていたのだろうか。反射的にショーンを見上げ目が合うと、彼は悩まし気に微笑み首を横に振った。
「やっぱりいい。今はやめておく。後で聞かせてくれ」
一瞬だけ、なぜ、という疑問が脳裏を過ったけれど、僕はすぐに頷いた。「じゃあ、後で話すね」と。
いつもの冷静な声で、自分から言いだしたのに悪いな、とでも言い訳するような申し訳なさそうな表情だったのに、なぜだか僕には、彼が今にも泣きだしそうな子どものように思えたのだ。
今、僕の話を聴いたら、大人の理性的なショーンは、これから起こそうとする行動を躊躇して考え直すかもしれない。それは嫌だと、当時の幼かったショーンが頭を振った。そんな気がした。
明るくて、社交的で、頼りになるショーン。これまで僕が見ていたのは彼のほんの表層だけ。僕はずっと彼のなかに残ったままの子どものショーンに気づくことはなかったのだと、そんな自分が悔しくて。
もしもまた、アーノルドの館で見せつけられた光景と同じような場面を目にすることになっても、今度こそ僕は目を逸らさずにショーンを支えたい。この世の理は理不尽で、立ち向かったところで打ち負かされるしかない。何も出来ない無力感に心が何度も折れたことで、理解できたことだってあるのだから。
それからしばらくの間、ショーンは僕の横で黙ったまま壁にもたれて、ぼうっとしていた。どこか遠く、起きてしまった過去を眺めているのか、それとも来るべき未来を見つめているのか――
「コウ、ごめんな。俺の我がままに巻き込んじまって」
瞼を伏せて、ショーンが押し殺したような小声で言った。
「巻き込んだのは僕の方だよ。僕がいなければ、こんなことにはならなかったはずだもの」
「――それじゃあ、ありがとう、かな。俺にチャンスをくれて」
チャンス――、そうなのだろうか。ジニーを救いだす未来は来ないのに……
「それに、傍にいてくれてありがとう」
はっとして、ぐい、とショーンの腕を引いた。「ショーン、あれ!」声を落として目線で教えた。通りの向こう側を歩く親子連れは、おそらく――
掴んでいたショーンの腕に、ぐっと力が入る。半袖の直に触れる肌が、急に汗ばんだようにさえ感じる。大丈夫なのだろうか、と彼を見上げると、ショーンは少し蒼褪めた険しい顔つきで、通り過ぎていく彼らを見つめていた。
「あそこに入るのか」
ショーンの反応に気を取られていた僕は、どこだろう、と慌てて彼らの背中を追いかけて、――彼と同じ様に息を呑んだ。