89.長い一日
カフェを出ると、足は自然とゲールの住む家の方へと向かった。どちらからということもなくゲートをくぐり、店の並ぶ中庭に入った。これまでに来た時とは違い、お客さんと思しき人がたくさんいる。そこかしこで写真を撮ったり、ベンチでくつろいでいたり。ゲールの店のドアも大きく開け放たれ、そこから垣間見える店内も賑わっている。
「残りの代金を取りに来て、って言われたけど、後にしようか。忙しそうだもんな」
ショーンは優しそうに目を細めてそう言った。
「その方が良さそうだね」と僕も頷いた。ゲールの店がお客さんでいっぱいなのが、自分のことのように嬉しかった。ショーンの指輪を高額で買ってくれたくらいだから、経済的に困っているのではないことは、なんとなく察しがついていたけれど。こうして自分の目で見るのは、やはり安心する。
「ゲールのヤツいるかな?」
ショーンが閉じられたままの二階の窓を見つめて呟いた。
「学校じゃないの?」
昨日、休みだって言っていた。
「今日は日曜日だよ。昨日、朝の内に来るって言ってたのを、すっかり忘れてたんだ。すれ違いになったかもしれない」
しまったな、と軽く眉をしかめている。
「お母さんに聞いてみる?」
まだお昼どきと言っていい時間だ。家にいるかもしれない。
「アマンダもいない」
開け放たれたドアから正面に見えるカウンターにいるのは、確かに昨日の朝見かけた女性とは違う。もっと年配で、ゲールのお祖母さんといっていいくらいの年齢だろう。面識のない相手に、小さな子どもの所在を尋ねるのは躊躇するところだ。
「ま、仕方ないな」
ショーンは、口をへの字にして、僕に肩をすくめてみせた。だから僕も、ここで小さいゲールに逢うのは諦めて踵を返した。
僕はここで、もっと注意を払うべきだった。昨日とはどこか異なっている、そんな違和感に気づくべきだったのだ。周囲の観光客の浮かれた様子、華やいだ雰囲気、降りそそぐ陽の光。跳ね躍る梢の緑。浮かれているのは人間だけじゃない、ということに。
それからしばらく、ショーンと連れだって通りをぶらぶら歩いていた。「ここにはどうやって来たの? バス、車?」と、何気なく浮かんだことを口にして。
「車。レンタカーだったんじゃないかな」
いちいち言わなくても、彼は12年前の話だと察して返事をくれる。
「きみが歩いた道を辿れるかな?」
「さすがに覚えてないよ」ショーンが苦笑して言った。「思い出せるのは、断片的なことだけなんだ」
「そうか、そうだよね」
ショーンはどこで、どこから介入するつもりだろう? そんな欠片でしかない記憶のなかで、確かな場所、時間は限られている。マーケットクロスのあの場所しかない。解っているのに――
それを聴いて、僕はどうする?
「なぁ、コウ」
神妙な顔つきで、ショーンが急に立ち止まった。僕は、ん? っと小首を傾げた。
「きみは、運命は変えられない、って言ってただろ。だから、過去に介入するべきじゃない、って。それなのに、どうして急に意見を変えたんだ?」
「それは――」
言葉に詰まってしまった。正直に話すとショーンを傷つけてしまいそうで。だけど、彼にしてみれば、ころころと意見を変える僕では頼りないかもしれない。
「介入してもジニーの運命は変えられないんだ。だから、きみは今以上に傷つくことになるかもしれない。だけど、きみがそれで納得できるなら、その過程は、きみには必要なのかもしれないって、思い直したんだ」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
険しい視線と、固い声音が返ってきた。
だって僕は、試みてきたから。
「何度も試みて、どうにもならなかった過去を、見たことがあるんだ」
「前にもこんな経験を? いつ? きみにも変えたい過去があったのかい?」
彼が息を呑む音がした。
そこからの矢継ぎ早の質問に、頬が引きつって応えられなかった。吸い込む空気が上手く気道を降りてきてくれない。ヒュッと変な音を立てて喉がひくつき肩があがる。
「ごめん、落ち着いてくれ、コウ」
ぎゅっと両肩を掴まれた。
だけど、僕の肩を支えにして落ち着こうと深呼吸しているのはショーンの方だった。彼の背に手を回して、ぽんぽん叩いた。この状況に緊張しているのも、追い詰められているのもショーンの方なのだ。僕が潰れている場合じゃない。
「この夏、僕が目覚めなかった間のことなんだ」
ショーンはもう知っている。だから、この話をしてもいいはずだ。アルには言わないで欲しい、とそれだけ約束してくれれば。
「僕は、現実で流れるよりもずっと長い時間を、あちら側で過ごしていたんだ」
人の流れの邪魔にならないように脇に寄り、赤煉瓦の壁に背をもたせかけた。ショーンは黙ったまま僕を見つめていた。




