88.生きているということ
僕たちの泊った屋根裏のある建物から、15分、20分くらい歩いただろうか。まだ記憶にも新しい、八角形の尖塔の聳え立つマーケットプレイスに戻ってきた。ちょうどランチタイムに重なって、カフェの表に出されたテーブルはすでにいっぱいだ。
ここに陣取ることができれば、マーケットクロスは目の前でショーンの目的に敵っただろうに、と残念な気持ちでショーンを見上げた。けれど、彼はがっかりした様子も見せず、どんどん店の奥へと進んでいった。
僕はしばらくの間その場に留まって、壁やガラス張りの桟をしげしげと眺めていた。一昨日来た時にはクリーム色だったのだ。それが緑になっている。いや、緑だったのをクリーム色に塗り替えたのか。
12年の月日を遡っていることを、こんなことで実感した。そして逆に、この町のあまりの変わらなさに驚いた。外観の塗装は変われど、同じ場所に同じ店があるんだもの。入れ替わりの激しい日本の地元の繁華街とはこうも違うんだな、と妙に感じ入ってしまった。
奥まった窓際の席についていたショーンが、僕を見て手を上げた。
「こんな奥でよかったの?」
ここからじゃ、肝心のマーケットクロスが見えないのに。
ショーンは「大丈夫だよ。どのみちここしか空いてなかったんだ」と頷き、ついっとメニューを僕に向けた。
居ても立っても居られずここに来た、とはいえ、つい先ほど赤ちゃんの頭くらいありそうなスコーンを完食したばかりでお腹は空いていない。僕は前回と同じカフェラテだけを頼んだ。
ショーンの話してくれた通り、夏至当日のこの町は特別だ。人出が半端じゃない。席に座れてラッキーだった。いつのまにか店内は混みあい、カウンターに列ができていた。注文してから飲み物が運ばれてくるまで、優に30分は待たされた。
その間、窓から行き交う人々の流れを眺めていた。ショーンの言った通りの、ジニーを攫った黒いローブがすぐ目の前を通りすぎ、どきりとした。目を剥いて指さした僕に、「今日はあんな恰好をした奴らばかりだよ」と、ショーンが顔をしかめて教えてくれた。言葉の通り、注文が運ばれてくるまでだけで、そんなローブ姿が3、4人は通りすぎて行った。
ようやく僕のカフェラテが、そして、ショーンの前に厚みのあるルーベンサンドイッチが置かれた。これは牛肩肉の薫製の薄切りに、スイスチーズ、ザワークラウト、ピクルスを挟んだグリルサンドで、ロシアンドレッシングで味付けされている。見ているだけで重い。
だけど、待ってました、とばかりにかぶりつくショーンの健全な食欲には逆に安心する。熱いカフェラテをゆっくりと啜りながら、僕は僕で、この非日常のなかで繰り返される日常に馴染んできたことが我ながら可笑しくて。
ショーンが不思議そうに僕を見ている。
「なに?」
「きみが楽しそうな顔してるからさ」
僕に目を据えたまま、がぶりとサンドイッチに齧りつく。
「楽しいわけじゃないけどね。ああ、でも、ここに来たばかりの時より緊張は解けたかな」
「当座の金はあるしな」
「それ、ほんと大事」
深々と息をついた。過去に戻ってきている、ということよりも、ここで生きている体の欲求を満たすことの方がずっと切実だなんて、これまで考えてもみなかったことだ。
「現実に戻ったら、お金に換えられる物を身につけておくようにするよ」
「また、こんなことがあるって! 俺は、今が俺の人生で最大のスペクタクルだと思ってるのに」
「僕も初めてだよ、」
彼らの事情に巻きこまれて、訳の分らないところに飛ばされたことは何度かあるけれど。今回は一人じゃない。それが嬉しいのか、巻きこんでしまって申し訳ないのか、よく判らなくなってきている。卑屈にならずに、こんなふうに思えるのはショーンのおかげだ。
アルの時は、もしかすると、彼はもう戻れなくなるかもしれない、って不安の方が勝っていたのに。ショーンなら大丈夫だと思える。安心していられる。
「こんなに現実みたいなの、きみがいてくれるからかな」
「現実? 違うだろ。ここは俺たちが生きてきた世界じゃないじゃないか」
「ここが過去でも、たとえ夢の中でもさ、きみといると現実を忘れないでいられる。きみは地に足がついているっていうのかな。どんな時でも、何があっても、ちゃんと生きているって気がするんだ」
「はは……」
口の端で笑って、ショーンは顔を窓に向けた。
口に出してから、イースターの休暇で彼が「自分が生きているのか判らなくなる」と言っていたことを思い出した。それを確かめるために、誰かを――、一夜の相手をしてくれる誰かを求めるのだ、と。
「さすがに、こうも混んでちゃ長居するのは気が引けるな」くるりと僕に向き直り、ショーンが真面目な顔で言った。「出ようか。その辺をぶらついて時間をつぶそう」
小さなショーンとジニーがここに来るまで、まだ3時間ある。