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エートス 風の住む丘  作者: 萩尾雅縁
Ⅻ きみのための道
88/99

87.ホメオスタシスはいいことばかりじゃない

 久しぶりの香ばしいコーヒーの香りだ。といっても最後に飲んでからまだ数日のはずなのだが、懐かしささえ感じる。窓が切り取った空は曇りのない青。差し込む光に(ほこり)がチラチラ舞っているのが見える。

 僕は床の上で寝ていたはずなのになぜかベッドの上にいて、ショーンはにこにことご機嫌でコーヒーをドリップしているところだった。


「ショーン、おはよう」

「おはよう! コーヒー淹れたてだぞ、冷めないうちに食えよ!」

 

 昨夜のことは夢だったのか、と思えるほどいつものショーンだ。だけど木箱テーブルの上にはスコーンまで用意されていたから、指輪の代金の一部で、朝食を買ってきてくれたに違いない。やはり夢じゃないってことだ。


「朝から買い物に行ってくれたの? ありがとう、ショーン」

 僕はもそもそとベッドから下り、部屋の隅にある小さな洗面台で顔を洗い口を(ゆす)いだ。

「いいって、いいって。まずはきみに元気になってもらわなくちゃな! それにはまず、しっかり食べなきゃな!」

 テーブルにはスコーンだけじゃなく、クロテッドクリームにいちごジャムの瓶まである。

 昨夜のことで僕も僕なりに覚悟を決め、ここに長居することなく元の時間軸に戻れるようヴィーと交渉することにした。だから物惜しみすることなく、たっぷりとクロテッドクリームを掬いとって、スコーンに塗った。それからジャムも。

「うん。美味しい」

 口の中を甘く満たして微笑むと、ショーンも、もぐもぐ頬を膨らませたまま満足そうに頷いた。


 どんな時でも、何があっても、すぐに平常運転できるショーンって本当にすごいと思う。心の恒常性(ホメオスタシス)機能がとても強いんだ、ってアルが言っていたのが解かる気がする。いつまでも引きずってぐずぐずしている僕とは大違いだ。見習いたい。



 大振りのスコーンを最後の方は無理やり飲み物で流しこんで朝食を済ませた後は、さて、どうしようと思案にくれた。ヴィーはショーンの前では真面目な話はしてくれないだろう。一時、彼にはこの場を外してもらわなければならないのだ。


「なぁ、コウ」

 僕と同じように押し黙って考え事をしていたショーンが、先に口を開いた。

「なに?」

「今日、何日か知ってるか?」

「分らないよ」

「6月25日なんだ」

 ショーンが何を言わんとしているのか判って、息が止まった。

「グラストンベリーフェスティバル最終日、俺たちがこの町に来た日だよ」

「だめだよ、ショーン!」

 思わず両手でテーブルを叩いて叫んでしまった。


 それはだめだ! 


「過去の改竄(かいざん)は許されない? もう、俺たちはここにいるのに? いったい誰が俺を罰するってんだ?」


 ショーンの口許から笑みは消え、澄んだ青の瞳が氷のように冷え冷えと僕を見据えている。ここまで来る塔の窓から地上(かこ)を見下ろしていた時と同じ、仄暗さを孕んで。

 あの時と同じように、今また過去に触れることは、ショーンに過去に喰らった衝撃と同じ痛みを再現させることに繋がる。ジニーを取り返すことは叶わないのに、同じ痛みを、いや恐らくそれ以上の苦しみを彼が、また目の当たりにすることになるなんて、僕は嫌だ!


 ――けれどね、コウ、心の恒常性(ホメオスタシス)機能はいいことばかりじゃないんだよ。苦しみが習慣化されれば、その苦しさを終わらせ新しい生き方を見つけるよりも、自分に馴染んだ苦しみのなかに留まることを選ぶ、そんな自分自身の変化を嫌う臆病で怠惰な心の状態でもあるんだ。

 彼の場合、心の動揺からの立ち直りが早い、切り替えが早いように見えるのは、彼が抱えている根源的な苦しみと比べれば、多くのことが些末でしかないからじゃないかな。


 そんなアルの声が、僕を諭すように脳裏に湧きあがってきた。

 ジニーを見失った自分を許すことができなかったショーンが、今、自分を変える行動を起そうと望んでいるのだ、と。

 それがとてつもなく、痛みを伴うものだとしても、彼なら、アルならきっと――


「定まった運命を変えることはできないよ」

「確かめるだけでいいんだ」


 ぎゅっと縮こまった皮袋から絞り出されたような声だった。

 僕はもう、何も言わずに頷いた。


 僕たちがこの時間ここにいることの意味。未来のゲールのためなのか、それともショーンの望みに引きずられたのか。僕には判断できないけれど、ここに来る始まりからずっと(まと)いついてくるジニーの気配が、もはや関係ないとは思えなかった。


「それじゃ、行こうか」

 ショーンは早速立ち上がり、辺りをきょろきょろ見回している。ん? と僕が首を傾げると、「スマホどこに置いたかな」と苦笑いして肩をすくめた。「時間をさ、」

「ああ、ここにあるよ」と、僕は床に落ちていたそれを拾って彼に渡した。「充電がそろそろ終わりそうだな」ショーンがスマートフォンをチェックして呟いた。


 ちらりと見えた時間は、11時48分だった。





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