86.大事なことほど思い出せないのはなぜだろう
イギリスでは12歳未満の子どもを、大人の付き添いなしで外出させてはならない。それに、たとえ短い時間でも、家や車中に子どもを放置することも禁止されている。
けれど日本では、小学生の頃から一人で通学したり遊びに出かけたりするのは、普通ではないだろうか。僕も一人でバスに乗って塾に通うことは、当たり前だと思っていた。
イギリスの子どもの安全に関する規律は、日本に比べるとずっと厳しいのだ。
ショーンの妹の事件のことをアルと話した時、日本とは違うそんなイギリスのお国事情も教わった。それだけ危険と隣り合わせ、誘拐事件が多いのだということだった。全国児童虐待防止協会の定めたこのガイドラインを警察も支持しているんだ、とアルは真剣な表情で言っていた。僕は幼く見えるから、誘拐には特に気を付けるように、と変な心配さえされてしまった。
ゲールが朝早くから一人でトーの丘にいたのも、僕たちにこの屋根裏部屋を貸してくれたのも、常識的に考えてかなりマズいんじゃないだろうか。それに、お母さんの夜の外出だなんて――。近所の人にでも知られたら、虐待で通報されてしまうかもしれない。それとも逆に、だからこそ、こんな誰もが寝静まっている時間に彼女は来たのだろうか。
アルがショーンの両親にあれほど憤慨していたのも、今なら解る。子どもを一人にさせない、子どもだけで置いておかない。それがこの国の常識なんだ。以前この話を聴いた時、僕はちゃんと解っていなかった。身近に幼い子どもがいなくてピンとこなかったにのもあるし、日本は治安がいいから、という大前提があるにしても、親が上の子に下の子の面倒をみさせている間に用事を済ますのが、取り立てて悪いことだと思わなかったからだ。だから、ジニーのことは不幸な事故だった、くらいにしか感じられなくて。
情けない。
とめどなく沈み落ちていきそうなため息が漏れた。
ロンドンも、ここも、そんなに治安が悪いとは感じられない。だけど実際に英国では、月に100件もの子どもに対する誘拐事件が起きているそうだ。それだけの事件が起こっているから、皆、子どもの安全に気を配るし、子どもを守るためのルールも厳しくなる。
そんな常識のなかで育ってきたはずなのに、ショーンは守ってもらえなかった。それどころか、ずっと守る側に立たされていた。
そしてそれは、今も続いている――
ようやく、僕はショーンの想いに追いつくことができたのだ。
僕はいつも——、古い時代の因習のままに父に仕える母の姿を見てきたから——、周りに気を配って、あれこれしてくれるショーンに感謝こそすれ、それがおかしい、などと考えたこともかった。単純に僕が頼りないから気を使わせてしまっているのだ、とばかり思っていたのだ。僕にとって気配りは美徳で、誰かにとって役立てるよう尽くすのは道徳的に良い人間だから。だからアルに、僕のそんな考え方をおかしいと諭されても理解できなくて。言葉で確認したことはなくても、僕と同じようにあれこれ雑用を厭わないショーンを、似たような価値観を持っているからだ、と勝手に決めつけていた。
ショーンの側に、そうしてしまう事情があるかもしれない、なんて、考えられなかったのだ。
ゴトッと大きな音がして、はっとして顔を起した。みると、木箱の上に突っ伏して眠り込んでいたショーンがゴロンと床の上に転がっていた。僕は僕のコートを彼の下から引っ張りだし、かけ直そうとしたけれど止めた。朝方の冷え込みは、こんなものじゃしのげないだろう。ベッドで寝る方がいいのだが、僕じゃ彼をベッドまで運べない。
使っていた羽根布団を取ってきて、彼にかけた。僕はコートに腕を通し、彼の横に腰を下ろして脚だけ布団に入らせてもらった。
こんなふうに夜を越したなんて言うと、アルが嫌がるだろうな、と苦い妄想が脳裏を掠めたけれど、こんなところで風邪を引く訳にはいかないもの。
酔っ払っていつもよりも赤みを増したショーンの寝顔は、なんだか笑ってしまいそうになるほどあどけなくて。大人びてしっかり者の彼も僕と同じ年齢でしかないんだ、と今さら気づいた。
いつも僕が保護されているように感じる関係性は、やっぱりおかしい。僕は彼の妹じゃない。彼女にしてあげたかったことを僕にしてくれても、ショーンは救われないじゃないか。こんなにも、ジニーだけを追い続けているのに。
アルが話していたショーンの抱える問題の意味が、ようやくストンと落ちてきたのだ。
アルはどんなふうにショーンのことを語っていた?
女性を憎んでいる。だから、ぞんざいに扱うことで復讐している。それは、お母さんに対する言葉にできない恨みがあるからで。それから——
思い出せない。大事なことを言っていた気がするのに。
アルの言う通り、憎んでいただけじゃなかった。ショーンは、お母さんに似ていると感じたゲールのお母さんをぞんざいに扱ったりしなかった。馬鹿にしたり、軽蔑したり、そんな態度を取らなかった。ゲールのために家まで送ってあげて、満足だって笑っていたじゃないか。
アルはそんな強い真逆な感情を同時に持つことを、何て説明してくれたっけ?




