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エートス 風の住む丘  作者: 萩尾雅縁
Ⅻ きみのための道
87/99

86.大事なことほど思い出せないのはなぜだろう

 イギリスでは12歳未満の子どもを、大人の付き添いなしで外出させてはならない。それに、たとえ短い時間でも、家や車中に子どもを放置することも禁止されている。

 けれど日本では、小学生の頃から一人で通学したり遊びに出かけたりするのは、普通ではないだろうか。僕も一人でバスに乗って塾に通うことは、当たり前だと思っていた。

 イギリスの子どもの安全に関する規律は、日本に比べるとずっと厳しいのだ。

 

 ショーンの妹の事件のことをアルと話した時、日本とは違うそんなイギリスのお国事情も教わった。それだけ危険と隣り合わせ、誘拐事件が多いのだということだった。全国児童虐待防止協会(NSPCC)の定めたこのガイドラインを警察も支持しているんだ、とアルは真剣な表情で言っていた。僕は幼く見えるから、誘拐には特に気を付けるように、と変な心配さえされてしまった。


 ゲールが朝早くから一人でトーの丘にいたのも、僕たちにこの屋根裏部屋を貸してくれたのも、常識的に考えてかなりマズいんじゃないだろうか。それに、お母さんの夜の外出だなんて――。近所の人にでも知られたら、虐待で通報されてしまうかもしれない。それとも逆に、だからこそ、こんな誰もが寝静まっている時間に彼女は来たのだろうか。


 アルがショーンの両親にあれほど憤慨していたのも、今なら解る。子どもを一人にさせない、子どもだけで置いておかない。それがこの国の常識なんだ。以前この話を聴いた時、僕はちゃんと解っていなかった。身近に幼い子どもがいなくてピンとこなかったにのもあるし、日本は治安がいいから、という大前提があるにしても、親が上の子に下の子の面倒をみさせている間に用事を済ますのが、取り立てて悪いことだと思わなかったからだ。だから、ジニーのことは不幸な事故だった、くらいにしか感じられなくて。


 情けない。

 とめどなく沈み落ちていきそうなため息が漏れた。


 ロンドンも、ここも、そんなに治安が悪いとは感じられない。だけど実際に英国では、月に100件もの子どもに対する誘拐事件が起きているそうだ。それだけの事件が起こっているから、皆、子どもの安全に気を配るし、子どもを守るためのルールも厳しくなる。


 そんな常識のなかで育ってきたはずなのに、ショーンは守ってもらえなかった。それどころか、ずっと守る側に立たされていた。

 そしてそれは、今も続いている――

 ようやく、僕はショーンの想いに追いつくことができたのだ。


 僕はいつも——、古い時代の因習のままに父に仕える母の姿を見てきたから——、周りに気を配って、あれこれしてくれるショーンに感謝こそすれ、それがおかしい、などと考えたこともかった。単純に僕が頼りないから気を使わせてしまっているのだ、とばかり思っていたのだ。僕にとって気配りは美徳で、誰かにとって役立てるよう尽くすのは道徳的に良い人間だから。だからアルに、僕のそんな考え方をおかしいと諭されても理解できなくて。言葉で確認したことはなくても、僕と同じようにあれこれ雑用を(いと)わないショーンを、似たような価値観を持っているからだ、と勝手に決めつけていた。

 ショーンの側に、そうしてしまう事情があるかもしれない、なんて、考えられなかったのだ。


 ゴトッと大きな音がして、はっとして顔を起した。みると、木箱の上に突っ伏して眠り込んでいたショーンがゴロンと床の上に転がっていた。僕は僕のコートを彼の下から引っ張りだし、かけ直そうとしたけれど止めた。朝方の冷え込みは、こんなものじゃしのげないだろう。ベッドで寝る方がいいのだが、僕じゃ彼をベッドまで運べない。

 使っていた羽根布団を取ってきて、彼にかけた。僕はコートに腕を通し、彼の横に腰を下ろして脚だけ布団に入らせてもらった。

 こんなふうに夜を越したなんて言うと、アルが嫌がるだろうな、と苦い妄想が脳裏を掠めたけれど、こんなところで風邪を引く訳にはいかないもの。


 酔っ払っていつもよりも赤みを増したショーンの寝顔は、なんだか笑ってしまいそうになるほどあどけなくて。大人びてしっかり者の彼も僕と同じ年齢でしかないんだ、と今さら気づいた。

 いつも僕が保護されているように感じる関係性は、やっぱりおかしい。僕は彼の(ジニー)じゃない。彼女にしてあげたかったことを僕にしてくれても、ショーンは救われないじゃないか。こんなにも、ジニーだけを追い続けているのに。


 アルが話していたショーンの抱える問題の意味が、ようやくストンと落ちてきたのだ。

 アルはどんなふうにショーンのことを語っていた? 

 女性を憎んでいる。だから、ぞんざいに扱うことで復讐している。それは、お母さんに対する言葉にできない恨みがあるからで。それから——

 思い出せない。大事なことを言っていた気がするのに。

 アルの言う通り、憎んでいただけじゃなかった。ショーンは、お母さんに似ていると感じたゲールのお母さんをぞんざいに扱ったりしなかった。馬鹿にしたり、軽蔑したり、そんな態度を取らなかった。ゲールのために家まで送ってあげて、満足だって笑っていたじゃないか。


 アルはそんな強い真逆な感情を同時に持つことを、何て説明してくれたっけ?

 




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