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エートス 風の住む丘  作者: 萩尾雅縁
Ⅻ きみのための道
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85.譲れないところ

「どういう意味?」

 聞きたくない。だけど、今お世話になっている人を悪く言うのなら、見過ごすわけにはいかない。いくら相手がショーンだって――

 こういう自分の融通の利かないところ、嫌になる。だけど、自分でもどうしようもないことってあるじゃないか。


「意味って……」

 ショーンは嘲るように唇を歪めた。


 彼が自分のお母さんを良く思っていないのも知ってる。だけど、”同類”が彼女のどんな面を指して言っているかまでは判らなかった。以前、バズと一緒に彼女に逢った時は、ショーンは家が散らかっていて調っていないことをしきりに気にしていた。家事放棄とまではいかないにしても、もしもゲールが母親から充分にお世話してもらえていないのだとしたら、知らんぷりするわけにはいかないじゃないか。


「ゲールの母ちゃんはさ、まだ若いんだよ。30過ぎてるなんてとても見えなかった。美人だしな。一人で子ども育てて大変なのも、まぁ、解るよ。だけど、こっちはただの学生だぜ? それも子どもが連れてきた客じゃないか。そんなの相手にしようなんて、普通、思うか? 見境なさすぎだろ!」


 憤慨しているのか嘲笑っているのか、ショーンは声を高めて一気に捲し立てた。

 僕は意味が判らなくて。察するまでに時間がかかった。でもやっぱり信じられなくて、念を押して尋ねてみた。

「それって、つまり、きみを誘ってきたってこと?」


 ショーンは黙ったまま鼻を歪めた。「あの指輪のせいで、金持ちのボンボンに見えたのかもな」と今度は落ち着いた口調でアルミカップを口に運ぶ。こくりと飲み下した後「やっぱり、コウの淹れてくれたお茶は旨いよ」とにっこり笑ってくれた顔はいつものショーンだ。


 彼にしろ、嫌だったのだ。


 電撃が走るように理解した。我慢してきたことを吐きだして、ショーンもようやく一息つけたんだ。

 僕は「ごめん」と声になっているか判らないほどの小声で謝った。

 僕の中での彼は、女の子にだらしのないショーンのままだった。そんな先入観で先走って彼に不快な視線を向けた。アルに、表に見える行動だけで相手を判断しないように、って諭してもらっていたのに。


「まぁ、きみからしてみりゃ、何を今さらお前が偉そうに言ってんだ、って思うのかもしれない。――確かにパブにはつきあったし、何杯か飲んで金の話もしたさ。けどな、いくら俺でもそのままホイホイついて行こうなんて思わないよ。母親がこんな時間に家を空けて、その間ゲールは一人で寝てるんだと思うとな――、さっさと帰ってやれって、ちゃんと言ってやったよ」

「ありがとう、ショーン。僕らには先立つものが必要だものね。かといって、こんな時間にゲールが放っておかれていいはずがない。ゲールのお母さんは――」


 なんて言えばいのだろう。シングルマザーで大変だから? 一人でゲールを育てていて心細いのかもしれない。例え一晩でも誰かに傍にいて欲しい、そんな夜だってあるのかもしれない。だけど、もしショーンが彼女を受け入れていたら、ゲールは一晩中一人ぼっちだったかもしれないわけで。彼女の心情を理解したい気持ちと、ゲールの置かれた現実を鑑みるのは別の話で――


「きみはどうしたい?」

 答えを出せないまま、ショーンに尋ねた。


 僕は、今のゲールのような立場にいたことはない。お母さんは専業主婦だったから、幼い頃、夜に一人で家に残されることなんてなかった。だから、同じく母子家庭で育ったショーンほどには、ゲールのお母さんの行動に嫌悪を感じることはない。

 だけどそれは、ショーンやゲールの気持ちが判らないってことではないのだ。ついさっきだって、目が覚めて一人だと気づいただけで、とんでもなく心細かったのだから。当たり前に傍にいてくれる、それが当り前じゃなかったとしたら、相手を恨んでしまうのも仕方がないのかもしれない。

 だけど逆に、大切な子どもを置いてまで、息抜きしたくなるお母さんの気持ちも解らないでもないのだ。共同生活をするようになってから、一人を淋しいと感じるのと同じくらい、一人の時間が欲しい、と日常と切り離される時間が欲しいと感じることがあったから。

 きっと、彼女がショーンを誘ったのは、彼がこの町の住人じゃないからだ。何のしがらみも未来もないから。戻る場所は判っているのに、刹那の息継ぎが必要なほど、彼女は――


「コウ」

 呼ばれてはっと顔を上げた。また、僕は自分のことばかりに夢中になっていたのだ。

「帰ってやれ、って言えたから、俺は満足だよ」


 え、と目を見張った。ショーンが涙ぐんでいる。どうしてだかまるで分からない。


「俺だって、理解できないわけじゃなかったんだ。一人で子ども育てるのがどれほど大変かってことも、息抜きしたいって気持ちにしたって」

 喉から絞り出すように声を発して、涙を我慢するようにショーンは瞼を瞬かせる。

「それに、俺が、何言ったって、聴いて、くれやしないだろ。諦めるしかないだろ。あいつが、機嫌よく、働いて、金稼いできてくれりゃ、食っていけるんだって、自分に言い聞かせるしか、なかったんだ」


 声を詰まらせ、話し続けるショーンの見開いた目許からどんどん涙があふれ上がり零れ落ちていく。真っ直ぐに向けられた彼の澄んだ青い瞳が映しているのは、僕ではなかった。彼が語りかけているのも。


「もしも、相手の男が、ガキのこと考えてやれ、って言ってやって、家まで送り届けてやれば――、そんな、いるわけない、夢みたいな大人になりたかったんだ。はは、――ごめん、コウ、俺、酔っ払っているみたいだ。聞き流してくれ」


 ころころと変わるショーンの感情の起伏の激しさは、酒のせいだけじゃないだろう。

 ショーンは長い間隠し続けていた本当の願いを掘り起こし、叶えたのだ。


 ゲールのお母さんに自分のお母さんを、ゲールに幼い頃の自分の姿を重ねて、お母さんには、労いを。子どもには、安らぎを。

 たとえそれが、今夜一晩だけのことだったとしても。


「僕はきみを本当に尊敬するよ」

 木箱に突っ伏して眠りに落ちた彼の肩に、羽織っていたコートをかけた。それくらいしか、僕にできることを思いつかなかった。

 


 



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