7.深く考えるには何か足りない
まさかの返信は、待ち構えてたんじゃないのかと勘違いしそうな速さで返ってきた。「喜んでご招待にあずかる」だなんて。僕の思惑に反して、マリーの提案はすんなりとバーナードさんに受け容れられてしまった。
これで来週の水曜の予定が空き、金曜日の午後から夜までが埋まることが確定した。金曜の午後は、アルビーの館へ行く日なのに。
がっかりするだろうな。
床に腰を据えて、リュックに着替えを詰めていた手が止まる。
離れて暮らすようになってからのルーティンが、これで崩れることになるのだ。習慣を変えてしまうのがなんだか怖かった。いつも通り彼のもとへ行けるのは、明日で最後になるんじゃないのか。いつもといつもの狭間へ、また堕ちてしまうんじゃないのか――って、そんな不安が心を掠めてどうしようもない。
でもきっとアルビーなら、僕があの彼ともっと打ち解けて、恙なく学生生活を送ることを望んでいるはずだから。こんな不安に心を割くよりも、イレギュラーなロスは我慢すべきだ、と自分自身に言い聞かせる方がきっと正しい。
アルビーと彼の関係性を考えだすともやもやしてしまうけれど、彼自身は、さすがにアルビーが太鼓判を押すだけあって、とても頼りがいのある相談役で間違いないもの。
自分自身を納得させて、止まっていた手を意識して動かし旅行準備を再開させた。あと、忘れているものはないかな。
記憶を確かめようと、意識を眉間に寄せて目をつぶった。それから、よし、大丈夫、と目を開けたら、至近距離にシルフィの大きな瞳――。
声も出ないほど驚いた。
「――びっくりした」と、バクバクする心臓が収まるのを待ってようやく呟いた。
頼むから、いきなり現れるのはやめてほしい。
「で、どうしたの、何かあった?」
なんだか銀の瞳がいつも以上にもの言いたげだ。すいー、とその瞳は僕から逸れてあてどなく動き、辺りを見回している。何か探しているような。
あ、机の下に見つけたらしい。一点に留まりじっと見つめている。
彼女の瞳と、その視線が固定されている場所を見比べ、よいしょっ、と腕を伸ばして底部の陰になっている辺りを探ってみた。アルビー愛用のこのアンティークの書きもの机はチェストとしても使えるもので、天板開閉式の机の下部に、薔薇の形の取っ手と花の彫刻のある大きな引き出しが三段ある。何かがこの陰に入ってしまったのを、見過ごしていたのだろう。
ああ、これかな。指先に当たる物がある。
いつも不思議に思うのだが、こういうとき彼らは、自分でその何かに手を出すことはしない。必ず誰か――ほぼ僕だけど――に、それをとってこさせる。アラジンのランプにでてくる悪い魔法使いのように。魔法のかけられた洞窟のような特殊な場所ではなくとてもよく見知った、例えば僕らの部屋で、他人にやらせるより自分で動いた方が早いだろ、というときでさえそうなのだ。
それにこれ、僕のじゃないか。
「へぇ、懐かしいな。こんなところに落ちてたんだ」
なんだか感慨深い気分で、たった今摘まみあげたばかりのてんとう虫の小さなピンブローチを手のひらに置いて眺めた。
小指の先ほどのそれは、半透明のルビー色のエナメルで色付けされた金属製で、黒い7つの斑点もちゃんとある。金色の細い脚なんて、おまけでもらったとは思えないほど丁寧に作られている。
確かグラストンベリー、ショーンとのイースター休暇旅行で立ち寄ったオカルトショップでもらったものだ。他のお土産といっしょにしていたつもりが、帰ってきたときには見つからなかった。
そうか、アルビーのお土産袋に入っていたのを気付かずに渡して、こんなところに落ちて紛れていたんだな、と独り言ちた。
「ん? シルフィはこれが欲しいの?」
ようやく僕の手の上に注がれていた何とも言えない――、嬉しそうとも、哀しそうとも見える不可解な眼差しに気づき、声をかけた。彼女の目がにこっと細くなる。それからゆっくりと僕の手のひらに顔を近づけて、唇をすぼめてふっと息を吹きかける。本物だと思っているのかな? もちろん金属製のこれは、軽い息くらいではびくとも動かない。彼女もこれが装飾品だと理解できたのか、つんつんと僕のキャップを指し示した。
「ここに付けろって? 欲しいならあげるのに」
ふるふると首を横に振っている。
シルフィも可愛いものが好きみたいなのに。自分で所有しようって気はないらしい。
僕はとくに深く考えもせず、彼女の望む通り、キャップのサイドにこのてんとう虫のピンブローチを付けた。少し距離をあけて見ると、本物がとまっているように愛らしい。特に昆虫が好きなわけじゃないけれど、幸運の御守りだと言われたし、大切にしようと思う。
のんきにそんなことを考えていた僕は、とんでもない未熟者だ。
彼らが回りくどい手順を踏んで僕に何かをさせたとしても、そこには特別な意味などない。
――などと、そんな都合のいい話がこれまであった試しがないのに。
この全き事実に、僕はまたもや頭がまわらなかったのだ。