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エートス 風の住む丘  作者: 萩尾雅縁
Ⅺ もしも過去に戻れたら
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77.楽しめる要素を探そう

「あー、腹減ったなぁ」と、ショーンが何度目かのため息をついた。「こう腹が減ると、この程度の丘でもきつく感じるよ」

「本当にね」昨日に続いて今日もトーの丘を上るなんて。おまけに昨日とは違って、腹ごしらえもできていないのだ。


 ここへ来るまでの道で、朝食を食べていこう、という話になったのだが、店の前でショーンがはたと立ち止まった。

「今が昔なら、スマホ決済できないよな。それにカードも使えない」

 いつも表情豊かに喜怒哀楽を表すから判りづらいけれど、実際、彼は滅多なことで動じないのだ。それなのに、そのショーンが蒼ざめている。

「こんな時に限って財布はリュックにいれっぱなしだなんてな」


 ぼやく彼に、初めから空っ穴な僕は慰めの言葉も何も言えなかった。ただ、弱音を吐いてこれ以上彼を不安にさせないようにしよう、と心に決めたくらいで。黙々と重力に逆らえないこの体を動かした。


 それにしても暑い。道を行き交う人たちの恰好からして、今は、僕たちがこの町へ来た時とは季節が違う。丘の斜面の牧草地も色鮮やかで、デイジーがあちこちに白い花を咲かせている。晩春か初夏くらいだろうか。晴れ渡る空とじりじり照りつける日差しの下で、持て余したコートはとっくに僕の腕にかかっている。


「あ、そうだ。このコートをリサイクルショップで売るってのはどう?」ふと思いついて、横を歩くショーンを振り仰ぐ。

「なるほど! あー、やっぱりだめだ。売るには身分証明書がいる。残念だな」

「そうなんだ……」


 後はもう、黙々と丘を上った。


 ようやくたどり着いて、昨日も、12年前の今日も変わらぬ佇まいで悠然とそびえ立つ塔を仰いだ。ショーンが胃の辺りを手で押さえてぶるっと身震いした。


 嫌だろうな——

 お金がないって、こんなにも切実だ。一歩この中へ入れば、またどこへ連れて行かれるのか判らなくなる。僕のせいで過去に来てしまったために、こんな現実的な問題に悩まされるなんて。これ以上の予測不能な状況にショーンを巻き込むのは——


「コウ、何してるんだ? 行こうや」


 どうするのがベストか、僕はつい立ち止まって考え込んでしまっていたのだ。振り向いたショーンが、くいっと顎で塔を示している。それから僕の側まで戻ってきて、にこやかに笑いながら、声を落として言った。やたらと瞳をきらきらさせて。


「すごいよな。こんなフィールドワーク、ダドリー教授からしてみれば垂涎(すいぜん)ものだよ! なんたって、インタビューの相手は本物の侏儒(こびと)だ! 帰ったら自慢できるかな?」

「ショーン、そんな浮かれていられない相手だって説明しただろ!」

 僕はあきれて唇を尖らせた。


 ヴィーは、ゲールのために彼と僕を()()()()たがっている張本人なのだ。隙を見せるわけにはいかない。ゲールの意思とは別のところで動いている思惑に、僕が絡めとられるわけにはいかないのだ。

「わかってるって」

 ショーンは気楽そうに片目を瞑る。


 もう、ショーンのこういうところ、信じられないよ。と不安に捕らわれそうになった時、ああ、そうか。僕の気持ちをほぐそうとしてくれたんだ、と気がついた。

 前を行く彼の手のひらは、骨の筋が浮き出るほどに強く、ぎゅっと握られている。決して言葉通りに気楽に考えているわけではないのだ。

 彼らと関わることの難しさを、博識なショーンに想像できないはずがないじゃないか。この夏のこともあるし、むしろ僕の心配をして……


 ——困難な問題に取り組む時は、恐れるよりも、不安に捕らわれるよりもまず先に、その中で何かしら楽しめる要素を探しなさい。


 今のショーンから、僕たちの学部担当のダドリー教授の言葉を思い出した。


 


 覚悟を決めて、慎重に、塔の開かれた入り口から中を覗き込んだ。

「あ、やっと来た! こんにちは! 初めまして!」

 明るい声がけたたましく、狭く伸びた空間に反響する。

 驚いて——、それとも戸惑ってかな、僕たちはその場で立ちすくんでしまった。


「ゲール・マイスター?」

 ショーンが呟いた。蚊の鳴くような声だったのに、その問いはちゃんと塔のなかの男の子の耳に届いたらしい。

「うん、そうだよ」と、すぐに返事が返ってきた。東の入り口から差し込む朝日で、彼の濃いピンク色の髪がきらきらしている。その髪は今よりクルクルしていて宗教画の天使みたいだけど、顔だちには僕の知っているゲールの面影がちゃんとある。ちょっとたれ目な、明るい夏の空の瞳が同じだ。

「6歳の?」

 ショーンがまた尋ねた。ここが本当に12年前なのか確かめているのだと思う。

「うん、よくわかったね。僕は小さい方だから、よく年下に間違われるんだけど。あ、ヴィーに聞いたの?」


 ここにきて、ようやく僕はこの幼い少年から目を逸らし、塔の上部を見上げた。

 やっぱり。ヴィーだけじゃない。窓枠や、積み重ねられた石のでっぱり、いたるところに様々な種類の鳥がいる。僕が顔を上げたのが合図ででもあるかのように、彼らは一斉に羽ばたいた。

 彼らが侏儒の姿になった後のドラコのアパートメントでの惨状を思い返し、あんな状態で話し合いができるかな、と不安がよぎった。


 だけど、それは杞憂だったみたいだ。

 鳥たちはそのまま上に飛び立ち、空へと広がった。騒々しい羽音が去った後には、侏儒の姿になったヴィーとゲール少年だけが残っていた。





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