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エートス 風の住む丘  作者: 萩尾雅縁
Ⅹ 異界の入り口
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73.現実じゃないから

 ふうっと意識が眠りの渦に巻き込まれ沈んでいきそうな瞬間に、目を開けて立ちあがった。身体を捩じって見下ろした足元にはちゃんと眠りについた体がある。よかった、成功。無事に体から離れることができた。思いのほかほっとして頬がゆるんだ。

「よっ」、と足先まできっちりと抜いた。重力から解放されるこの瞬間の爽快さは、何度経験しても心が躍る。自分の身体が薄まって羽を開いたように二倍にも三倍にも広がる、そんな感覚だ。視覚的に見えているのは、同じ身体にすぎないけれど。

 と、完全に分離したところで、ぎょっとした眼差しで僕を見上げるショーンに気がついた。


「え、見えてるの?」

「ああ、俺が、夢か幻覚でも見てるんじゃなければ」


 思慮が足りなかった。初めてのことが重なりすぎたのだ。

 現実か境界域にいるとき、僕のこの姿は現実世界(あちらがわ)の住人には見えないのが当たり前だった。()()はすでに()()()()ではない、そう自分自身で説明したのに、肝心な時に忘れていたのだ。


「体は重いから、置いていければ身軽でいいかな、って」もごもごと言い訳を探した。寝入りばな、ふとそんなことを思いついたのがよくなかった。その一瞬の間に体から抜け出てしまった。決して意識してそうしたわけじゃないのだ。

「足手まといになりたくなかったんだ。僕は体力がなさ過ぎるから……。()()は現実じゃないから、こんなこともできるって知っていたし」

 知っていたからしてしまった、意識が止めるよりも早く。こちら側の世界にはそんな特徴があるのだ。迷っている暇をくれない。強く望めば、よく考える前にそう行動してしまう。

 「現実じゃないって――」ショーンはしかめっ面で頭をぽりぽり掻いた。「解ってるつもりだったよ。だけどまさか、こんなことまでできるなんてな」

「うん。――そうだ、ショーンもやってみる? 体を離れれば疲れないし、お腹も空かないよ」

「面白そうだけど遠慮しとくよ」


 一瞬拍子抜けた顔を見せてすぐに真顔で首を振ったショーンを、僕は意外だな、と思った。彼なら飛びついてやりたがると思っていたのだ。つい不思議そうな顔でもしていたのだろう。ショーンは照れたように笑って言った。


「確かに好奇心をそそられる魅力的な提案だと思う。だけど、こんなところに体を放置して行くわけにはいかないだろ。当然、きみの体もな」

「――そうだね」


 ショーンの言う通りだ。ここは現実ではないと、何度自分自身に言い聞かせてみても、うまく認識を切り替えきれずにいる僕が間違っている。こちら側の誰かを頼れない以上、抜け殻となった体をほったらかしのままでいいはずがない。同じ道を通って帰れるとは限らないし、今あるこの階段だって、目的を果たせば消えてしまうかもしれないのだ。

 どんなことになったって、ドラコがなんとかしてくれる、僕にはそんな甘えがあったのかもしれない。ドラコの魔力で生かされているこの体がこちら側で傷つけられるはずがない、と漠然と思っていたのだ。

 むしろ僕が心配なのはショーンの方だ。僕の友人という理由だけで彼まで面倒みてくれるほど、ドラコはお人好しではない。そもそもドラコは人ではないのだ。

 そしてショーンにしても、僕の体はドラコに任せておけばいい、なんて言っても頷いてくれるとは思えない。この夏以降、彼はドラコのことを酷く警戒するようになっている。

  


「いいアイデアだと思ったんだけどな」

 こんな当たり前のことにさえ考えが及ばなかった自分が情けなくて、ため息がでた。

「いいアイデアだよ。きみが疲れないなら道行もはかどるもんな。そういうことなら、きみの体は俺が担いでいくよ」

 ぎょっとして、ショーンの顔を凝視してしまった。階段に置かれたスマートフォンの薄暗い灯りでも、冗談で言っているのではない真剣さは見て取れた。

「僕が楽するために、きみに負担をかけるなんてできないよ」

「大したことじゃないよ。むしろ――、」言いにくそうに、ショーンは一瞬唇の端を震わせた。「くたびれきって、辛そうなコウを見ている方が気が重くなる」


 ああ――


「ごめん」

「俺の方こそごめん。こんな酷い言い方しかできなくて。まぁ、要するにさ、俺が言いたいのは、アルみたいにはできなくても、俺だって体力だけはあるんだから、もっと頼ってくれってもいいんじゃないかってことだよ」


 いや、いくら僕が小柄で痩せているからって男一人担いで上がるのは――、と、ここでふと疑問に思った。ここまでのショーンの感じ方、変じゃないか? 僕が体力で劣るといっても、こんなにも差があっただろうか。春の旅行ではそこまでではなかったはずだ。


 まさか、このショーンって……

 いや、お腹が空いたって言っていた。すでに霊体なんてことはないはず。だけどもし、長時間食べていないからお腹が空くはずだ、という認識が脳を錯覚させているなら、あり得ない話でもないかもしれない。ここは、試してみるしかないか。


「ありがとう、ショーン。申し訳ないけれど、お願いします」

 僕はぺこりと頭を下げた。

「そんな大層なことじゃないって」

 ショーンはまた照れくさそうに微笑んだ。それからおもむろにスマートフォンを拾いあげ、僕に手渡した。

「前を頼んだ」

「了解」


 深く眠り込んでいる僕の体が、まるで空気の入った人型バルーンのように軽々と持ちあげられた。そして腋の下に首を差し入れられたかと思うと、がっちりと彼の右肩に担ぎ上げられた。片腕で僕の右脚と右腕がしっかりと抱え掴まれている。


「ごめん、重いだろ?」

「いや、全然」


 うん、そう見える。

 ショーンが凄いのか、それとも彼はすでに感じたいように感じられる()()()()世界に見合った存在なのか、すぐには判別つけられそうにない。だけどそれもじきに分かるだろう。


「先を急ごうか」

 腕を高く上げ、スマートフォンの灯りを深い闇へと続く階段に向けた。

 白くぼやけた光だったものが凝縮され、僕の手許で、きめ細やかに織られた一本の反物を勢いよく転がしたようにしゅるしゅると伸びていく。


 これもショーンのおかげだ。彼の一言で、僕はようやく主導権を得ることができたのだ。


 





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