72.非日常でもお腹は空くのか
それからまた階段を上っていった。だけど、そう長くは進まなかった。僕がとても疲れていたからだ。
「ごめん、疲れて、足が上がらない」
とうとうその場にへたり込んでしまった。
ぜいぜい息を切らしている僕の横に腰を下ろすと、ショーンは「いや、俺も腹が減って休みたかったとこなんだ」、と笑って言った。
まだまだ全然平気、というか、もっと進みたくて仕方ない様子で足取りも軽かった彼から、疲れた、と言われても僕は信じなかっただろう。だけど、この言葉は切実だった。
「しくじったよ、もっといろいろ買いこんでおけばよかった。まさか、こんな……」
それ以上言うと、僕を責めていると受け取られると思ったのか、ショーンは言い淀んで「ははっ」と笑って、天井を、というよりも境目などない吸い込まれそうな漆黒を仰いだ。
腰を下ろした階段も、手で触れる壁も冷やりと冷たい石材で、スマートフォンの照らす灯りの届く範囲も、間違いなくそう見える。だけどそれ以外は、闇。闇でしかなかった。一歩一歩進む先にこれからも本当にこの身体を支える物質があり続けるのか。常にそんな不安に囚われていた僕には、こんな場所でも、場合でも、こうも身体的に生きているショーンには驚かされるばかりだ。
「こんなものでよければ」
ポケットにあったチョコバーを引っぱり出して、光の輪のなかに差し出した。
「ん? こんなの買ったかな?」
「ガウンのポケットに入ってたんだ」
自分では入れた覚えがないのだが、リサイクルショップで着ていたガウンを引き取ってもらった時に、ポケットに残っていたと渡されたのだ。それをなんとなく新しいコートに突っ込んだままでいた。
「助かるよ! でも、きみも腹減ってるだろ、分けよう」
僕はいい、と頭をふった。
このマーズってチョコバー、どこにでも売っている定番商品で、数あるチョコバーの中でも一番人気ではないだろうか。チョコレートでキャラメルとヌガーをコーティングしているのだが、暴力的に甘い。僕も一度食べたことがあるが、一度経験するだけで十分だと思った。アルやマリーが市販菓子を食べるところを見たことがないのは、この糖分への警戒からだと僕は勝手に思っている。彼らはスタイルをすごく気にするから。
ショーンは「悪いな、ありがたくいただくよ」と、早速この小さなカロリーの塊をくちゃくちゃと咀嚼する。
「美味しい?」
「こいつをまずいなんて言うやつはロンドンっ子じゃないだろ?」
「本当に。皆、よく食べてるよね」
イギリスで生まれ育って食べつけてないとかなり重い。少なくとも今の僕には無理だ、空きっ腹に極甘チョコレートなんて。
「そういや、キッチンで飲んでた時もさ、食ったよ。スペンサーに勧められたんだ。高そうなアンティークガラスのケーキスタンドに山盛りチョコバーが盛ってあってさ、あいつもパクパク食ってた」
「スペンサーが? きみと一緒に食べたって――」
彼らが、誰かの前で食事をするなんて。それも、チョコバー?
そんなことがあったなんて冗談だろ。キッチンに行った時、僕はそんなものがあることさえ気づかなかった。
なんだか不可解だ。スペンサーの様子がおかしい。現実以上に主従関係の規則に忠実な彼らが、いくらよく知っているショーンであっても、人間の前で飲食するなんて初めてだ。にわかに信じられない。だけど、ショーンが嘘を話すはずもないし。
「スペンサーがガウンにチョコバーを入れたのかもしれないね」
スペンサーへの疑念をここで突き詰めても仕方がないので、変哲のない相槌でお茶を濁した。チョコレートの強い香りに僕も空腹を感じたためもある。
これも、これまでとは違う体験だった。
空腹を感じるのも、体の疲労を感じるのも。それは取りも直さず僕たちはこの身体のままあちら側の世界を移動している、ということだ。何度も行ったことのある僕にしても初めて――、いや、ここ最近ではなかったことだ。昔、もっと幼かったころを別にすれば。
「もう、このまま寝ちゃおうか」
空腹と疲労から逃避したいのか、脳が突然機能を停止した。そんな眠気に襲われた。
「ちょっと待てよ、コウ! こんなところで――」
朦朧とする頭でもショーンにもたれるのは気が引けて、反対側の壁にもたれた。ごつごつの石造りは触れる箇所が痛いので、よろよろ立ち上がってコートを脱ぎ頭からかぶった。これで石面に直接触れないだけマシになった。
ごめん、ショーン、もう無理。
そう告げたつもりだったが、声にのったかどうか――
すでに覚えていられなかった。




