68.何をするにも体力が要
階段を上り切って、「異界の入り口」といわれるグラストンベリー・トーにたどり着いた時には、ぜぇぜぇはぁはぁ、情けないほどの息遣いで両膝に手をついたまま、顔を上げることもできなかった。
「大丈夫か? まずは落ち着いてからでいいからさ」
当然、そんな醜態をさらしているのは僕だけ。ショーンは同情的な眼差しで労ってくれるほど余裕しゃくしゃくだ。足を引っ張っている僕を嗤わないでいてくれることにほっとする。
ようやく息がつけるようになったところで、彼は僕の飲み残しのカフェオレを手渡してくれた。こんなものまで彼に持たせてしまって……
頂上で食べるつもりで、サンドイッチと飲み物を買った。けれど、ショーンが空腹すぎると言うので、丘の門前でランチにした。この休憩を挟んで、わずか20分程度の距離を歩いただけなのにこのざまだ。
すぐに動きたいと切に願っていても、現実、足はがくがくしているし、身体は熱を帯びて言うことをきかない。こんなとき、恐縮して下手に謝ると逆にショーンに気を使わせてしまう、とこれまでの経験でさんざ学んだから、「ありがとう」とだけ伝えてその場に腰を下ろし、紙コップを口に運んだ。
塔のある頂上は草も枯れて地肌が目立つけれど、眼下には濃い緑の牧草地を一望に見晴らせた。登ってきたばかりの急勾配の道は、激しく波打つ緑の海原に一本の線を引いたようで。盛り上がり、抉り取られたその先に、人の営む町が見える。どこまでもなだらかに広がる景色には果てがなく、淡い地平線となって空に溶ける。
本当に、以前来た時とはまるで違う場所にいるみたいだ。
晴れ渡った空に風がいないせいだろうか――
「春に来た時は天気がいまいちだったよね。覚えてる? 小雨が降ったりやんだりで、ここに着いたころには霧が出ていて」
「そうだったな。こんな景色なんて見れなかったもんな」
「だけどあの時はあの時で、とても幻想的だったよね」
このサマセット州一帯に広がる田園は、かつて、この地が干拓されるまで湖や湿地だったらしい。海抜145メートルにある円錐形の丘グラストンベリー・トーは、その湿地帯に島のように浮かんでいたという。
この地がアーサー王終焉の地アヴァロンといわれるのは、この丘の頂上からアーサー王とグィネヴィア妃の遺体が発掘されたという言い伝えからだけではなく、ここが伝説ににふさわしい景観を伴っていたからに違いない。
春の旅行で目にしたのは、まさしく大海に浮かぶ小島から下界を見下ろしていると錯覚しそうな、当時の風景を彷彿とさせる眺めだったのだ。頂上では霧も強風に流されるのか視界は開けていた。それなのに、下方の牧草地や麓の町、田園地帯は濃い霧に呑み込まれ、大きな海原となって夕陽に染められ茜色に波打っていたのだ。
今にして思えば、その神秘的な景色がショーンの心を解して、彼の抱える重い秘密を打ち明ける気にさせてくれたのかもしれない。
アーサー王を迎え入れた恵みの島に、ジニーもまたいるかもしれない、とそんな願いを込めて。
「それにしても、今日はえらく人がいないな。前に来たときは、天気はあんなだったのにもっといただろ」
え、と僕は横に立ったままのショーンを見上げた。彼は身体を捻って周囲をうかがっている。
そういえば、ここまで来る間も誰ともすれ違わなかった。麓の門の辺りでは、降りてきた人を何人も見かけたのに。
立ち上がり、背を向けていた聖ミカエルの塔を振り仰いだ。どれほどの風雨に晒されようと、びくともしない戦士のようなその雄姿を。
「大天使ミカエルが降り立った場所――」
そして、英国でのキリスト教発祥の地とも言われている。
けれどそれ以前、古代ケルトの時代からこの地は信仰の対象とされてきた。この場所はアンヌンの王グウィン・アプ・ニーズが住んだ地とされているのだ。アンヌンはウェールズ神話に描かれる異界、理想郷であり、黄泉の国でもある。そしてグウィンは戦争と死の神――、キリスト教では悪魔とされている。
大天使ミカエルはその足の下に悪魔を踏みしだく。教会はやっきになってこの地に彼を封じ込めようとしたのだ。だけど、無駄だった。ここサマセット州は古代ケルトの伝統を重視し、ウェールズと同じく赤い龍を紋章にしている。教会の封印から解放された火の精霊の領域だ。そして彼の力を拡張する風の精霊の出入り口でもあるはずだ。
ここに来てようやく、おそらく黄泉の国にいるであろうショーンの妹ジニーと、僕たちの仲間内から消えたゲールがおぼろに繋がった気がした。
確かめなければ。
覚悟を決めてショーンを振り返ると、その腕に、買ったばかりの僕のコートがかかっているのが目に飛び込んできた。途中で暑くなって脱いだのを持ってくれていたのだ。気づいた途端、冷や汗が噴き出した。そのせいなのか、それとも辺りの冷気に今さらながら気がついたからなのか、ぶるりと身震いしてしまった。




