63.懐が寒いと心許ない
「あ、アル、俺、ショーンだけど」
電話が繋がると同時に飛び上がり、スマートフォンを奪い取った。
「アル!」
――コウ? コウなんだね? どこにいるの? 無事なの?
柔らかなアルの声そのままの切羽詰まった息遣いに、涙が出そうだ。
「アル、今日は何年の何月何日?」
「え?」
一瞬の戸惑いのうちに、アルはすぐに応えてくれた。
よかった。時間のずれはない。ここは現実で、僕たちのいる地の軸がずれただけだ。
「ありがとう。大丈夫だよ。僕たち、ショーンと僕は元気だよ。今はグラストンベリーのカフェにいる。必ずゲールを見つけて帰るから、心配しないで」
ひと息で言いきって、ぐいと腕を伸ばしてスマートフォンをショーンに返した。このままアルの声を聴いていると、飛んで帰りたくなってしまう。ゲールのことを忘れて――
ぺたんと椅子に腰を落とした。気が抜けて。
ショーンは僕よりもよほど冷静に、事と次第を説明している。淡々とした、だけどネイティブな早口が僕をすり抜けて流れていく。こんな時、ショーンも、アルも、普段は僕に気を使ってゆっくり喋ってくれているんだって気づくのだ。それに、バーナードさん。彼はまだアルの横にいるのだろうか?
――コウ、待ってるから。
ふわりとアルの声が耳に飛び込んできた。視線を上げると、目の前にショーンの腕があり、耳許にスマートフォンを当てられていた。ショーンが軽く頷く。僕も頷き返した。
「ありがとう、アル」
僕が言い終わると、一瞬、間を置いてショーンは電話を切った。「コウの声を耳に残しておきたいから、俺はもう喋るなって言われたんだ」苦笑いするショーンに僕は照れ笑いで返すしかない。
しれっとそんなことを言うアルにしろ、了解するショーンにしろ、僕がどれだけ恥ずかしいか、絶対考えてくれてないんだ!
「よし、それじゃ、そろそろ行こうか」
「行こうか、ってどこに?」
「まずは、コウの服を買わないとな」
あ、忘れていた。それに――
視線はテーブルの上をさまよい、伝票を探した。寝起きの恰好のままの僕は、お財布を持っていない。
「心配するなって」
察してくれたのか、ショーンはスマートフォンをちょいと持ち上げ、にかっと笑顔をくれた。ありがとう、ショーン。
とは言っても、やはり気になって仕方がなかった。カフェを出てそぞろ歩いていても、懐が寒いのは心もとない事このうえない。
ここにいる間、何もかもショーンに頼るわけにはいかないだろ――
と、つい眉間に皺が寄ってしまう。
「まだ金の心配かい? それくらい平気だって。俺はこう見えても金持ちなんだぞ!」
照れたように肩をすくめたショーンに、僕も釣られて肩をすぼめた。
「知ってる」
ショーンには、一つ大きな秘密がある。ショーンの友人で知っているは多分僕だけ。それに彼のお兄さんだ。身内でも、ショーンのお母さんやバズには内緒だという。
僕たちが知り合った大学準備コースに入る前、ショーンは、お兄さんと共同でスマートフォンのアプリを開発して、大儲けしたのだ。経済的に余裕ができたことで、ショーンは就職を見据えて志望していた工学部から、本当に学びたかった今の人文学部へ専攻を変える決心がついたのだそうだ。本人は謙遜して、「兄貴の職場が副業禁止だったから、俺の名前で売り込むしかなかっただけだよ」なんて言っているけれど、実はショーンは工学部ではちょっとした有名人なのだ、とアルが教えてくれた。専攻を変えた変わり種だからではない。その実力と期待値で。
「どんと大船に乗ったつもりでいてくれよ、コウ!」
そう言ってもらえるのは嬉しい、だけどそれは、彼におんぶにだっこでいい、て理由にはならないだろ。
「なぁ、コウ、俺はきみの取り分を横取りしちまったからさ、こんな時くらいカバーさせてもらえる方が気が楽なんだよ」
「え、何のこと、判らないよ?」
「ほら、アルのオヤジさんの蔵書や収集品を譲ってもらっただろ。アルはきみにって考えていたのにさ」
「ああ、僕は別に――」
受け取りたくなかったのだ。確かに貴重なものではあった。けれど僕が持っていると、アルが頻繁に目にすることになる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、っていうじゃないか。アルの気持ちが沈む原因になりかねないものを、僕が欲しいわけがない。
「必要もないしね」
それに、人が彼らと繋がるための道具なんて、僕には今更だ。
「だから、そのお礼ってことにさせてくれよ!」
「もともと僕のものでもないのに?」
「だからアルが、」
「うん、わかった。申し訳ないけれどお世話になるよ。意地張ったって、僕が空穴なのは変わらないしね。ロンドンに戻ったらこのお礼はちゃんとするからね」
肩をすくめて笑う僕に優しい眼差しを向けて、「お礼のお礼をされてちゃ、永遠に終わらないな」と、ショーンも同じ様に肩を丸めて笑って言った。




