62.知っているから戸惑うことだってあるんだ
いきなり立ち現れた道標に気を取られすぎた。変に思われたかな、と慌てて顔を伏せてカフェラテを啜った。けれどショーンは僕のぎくしゃくした素振りには気づいていないようで、くるんと天井を見据えて、いったん閉ざした唇を、この後どう開きどう続けようかと考えあぐねているようだった。
ショーンの視線の先の白い天井には、黒シェードのペンダントライトが並んでいる。モダンなのにテーブルやカウンターは木製で、ヘリンボーンタイルの壁や赤煉瓦で造作された厨房棚があるからか、洗練されすぎない温もりを感じられる。ここはとても居心地がいい。ガラス一枚挟んだ戸外は日が昇りきっても未だ寒々しいから、余計にそう感じるのかもしれない。
ロンドンは、夏が永遠に終わらないかのように暑かったのに――
灰色の空の下、通りを行き交う人たちをぼんやり眺めていたところに、「今考えると、」と、ショーンの声が耳に飛び込んできた。
「それも変な気分のせいだったのかなって気がするんだ」
ふたたび話し始めたショーンは、頭痛でもしているような険しい顔つきをしていた。
「アルに言われたこともさ、そこを歩いている時に急に思い出したんだよ。憑りつかれたみたいに考え耽ってて――。そのうちに、こう、泡が水中からぷかぷか浮かんでくるみたいに、いろんな場面が浮かびだしたんだ。すごく鮮明だったよ」
身振り手振りを加えて話してくれる声音はいつも以上にゆっくりで落ち着いている。だけど表情は、飲み込んだ毒を吐き出したくて堪らない苦しさを醸し出している。
吐き出すことを躊躇って言葉に詰まったのか、ショーンはまた視線を伏せて黙ってしまった。もどかしくてたまらない。
少しでも話しやすくなるように、僕は努めて「うん」「それから?」と声に出して相槌を打っていたのだが。僕だって、ショーンがいったい何を見て何を受け取ったのか、知りたくてしようがない。とはいえ、急かされるのも嫌だろうし――
「頭蓋骨の模型、緑の肌の魔女の人形、でかい鉄鍋――、実際に並んでいる品物とは違うのに、イメージが今しがた目にしていた店の上に覆い被さって見えたよ。それから、――いろんな店のウインドウに映っていた、9歳の俺。走ってたんだ。そして、ジニー」
反射的に目を見開いた。続けるのを躊躇っているのか、ショーンは僕を見ずに視線を落とした。いつの間にか民芸風の陶器の皿はすっかり空になっている。ショーンはぐっと僕に顔をよせた。
「ほら、さっき、大通りでジニーの背中を見た気がしたって言っただろ?」
意味深に声を潜めた彼の瞳を見つめ返して、こくりと頷く。
「誰かに手を引かれてたんだ。黒、いや深い紫かな、オカルトショップで売ってるようなローブを着たやつだ。俺は大声でジニーって叫んだんだ、するとそいつはジニーを抱き上げて消えた」
「消えた?」
どういうことなのかにわかに想像がつかなくて、小声で繰り返してしまった。ショーンは照れ笑いのように口許を歪めた。
「そりゃ、たぶん、そう見えただけだと思う。すごい人混みだったからさ。さっきも言ったけど、本当にジニーだったかどうかも――」
悔しそうに首を振るショーンの瞳は、身振りとは裏腹に絶対的に確信している。それなのにショーンは、僕が信じる訳がないって思っているんだ!
「違うんだ。きみの話を疑っているわけじゃなくて、」
「コウ、いいんだ。それより不思議なのはさ、俺がこのことを今の今まですっかり忘れてたってことなんだ! まさか、今頃になって思い出すなんてな」
片頬を引きつらせて、ショーンは自嘲的に言った。
「アルが言うように、俺も母親みたいに自分の罪を誤魔化すために、都合のいい妄想を作り出してるのかもしれないぞ。判らないんだよ。自分で自分が信じられないんだ」
「妄想だなんて僕は思わないよ!」
「今までずっと忘れてたんだぞ。急にこんな都合良く思いだすなんてこと……」
「あるんだよ!」
ショーンのなかに沸いた怒りは僕に向けたものじゃない。自分自身への苛立ちだ。解っているのに、きつい口調で言い返してしまった。
何て応えればいいのだろう?
それはきっと、きみだけの記憶ではなくて、この町の、その通りの記憶だ。ここに来て、歩いて、時間を遡りながら辿ることで再び浮上させることのできた記憶。僕がレイラインを辿ることで、ドラコとサラマンダーの記憶を取り戻していったのと同じ。
こう説明すればいいのだろうか。
だけど言えなかった。
僕には、ここから先をどう進めればいいのかが判らなくて。道標の仕組みを聞かされたって、それが僕らをどう導いてくれるのか説明できなければ、ショーンを混乱させるだけじゃないか。
不甲斐なさから視線を合わせることさえ忍びなくて、彼の頭上で散らばっている灯の粒子に視線を移してぼんやり眺めた。
二重螺旋のショーンの道は、いったい何を示しているのだろう?
もっとはっきり見えれば――、そうだよ、せめて方向くらい教えてくれたっていいじゃないか!
目を眇めて、じっとりとショーンの頭上を睨みつけるように眺めてしまった。気づいたショーンがふにゃりと頬を緩める。さっきまでの自嘲的な笑みとは違う気の抜けたような表情に、僕も釣られてしまった。緊張が解けてにっこりしてしまったのだ。
「何か視えるのか?」
「うん、僕たちの行くべき道の欠片がね」
ん? とショーンが小首を傾げる。判らないよな、こんな言い方じゃ。
「これからどうする?」
「うん、どうしよう」
テーブルに腕を置いて、ショーンは通りに目をやった。
「ここは、現実だと思うか?」
「判らない」
「とりあえず、アルに電話してみるか」
テーブルに置いたままのスマートフォンを手に取った。
自分たちのことなのに、僕はあまりにも曖昧で自信がなくて。その点、ショーンは自分がやれる事を見極められるし、行動も早い。
トゥルルー、トゥルルー
くぐもった電子音が虫の羽音のように空気を震わせた。




