59.安心している時が一番危ない
意表をつかれて「へ?」とほうけてしまった。
こんなわけの分らない状況でも、お腹って空くんだろうか? 少なくとも僕は空かない。むしろ胃がじくじくして食べたくない。
「とりあえず、この時間でも開いてるカフェでも探そうや」
ショーンは僕を見てにっこりすると、もうスマートフォンを触っている。
「ここにしようか。8時半から開いてる。旨そうだしな」
「今、何時だろう?」
僕も慌ててポケットを探った。でも、いつも持ち歩いているはずのスマートフォンはなかった。アルにもらったスマートウォッチも。
ああ、そうだった。ベッドサイドに忘れてきてしまったんだ。またアルに怒られる。
「もう7時回ってるよ。まだ早いけど行くか? それか、もう少しここで時間を潰しててもいいけどさ、どうする?」
どうする、と言われても――、困って小首を傾げてしまった。ショーンはのんびりした顔をして辺りを眺めている。薄暗かった中庭は、こうしている間にすっかり朝の光に晒されていたのだ。
だけど変わらずしんと静かで、ここだけ町から隔絶した世界みたいだ。大通りから少し離れているからだろうか。そこかしこと置かれた鉢植えや、石壁を覆い隠す蔦の茂み、地植えの細い樹々の密やかな息遣いだけが聞こえる。店先に一休みできるベンチがいくつも置かれているから、ここで時間を潰すのも全然ありなのだが、この場所は、とても私的な空間に思えて戸惑ってしまうのだ。まるで誰かの家の庭に迷い込んでしまったみたいで。いや、実際そうなのだが――
そういえば、ゲールは店の二階に住んでいたって言っていなかったっけ? 他の店にしても住居兼用かもしれない。こんな早朝のひと気のない路地中で男二人がずっと動かず喋ってるなんて、住人が起きてきたら変に思うんじゃないか。それはちょっと堪らない。
そこで、ショーンの腕をぽんと叩いた。
「行こう。町の様子も確かめたいし。ショーン、それでスマートフォンは普通に使えた?」
「ああ、問題ないよ、ほら」見せてくれたスマートフォンの画面にカフェの外観がちらっと見えた。
スマートフォンが当たり前に使えるということは、ここは現実なんだろうか? それとも、それ込みで夢に入り込んでいるのか――
いずれにせよ、ここに僕たちがいる、ということが与える影響にも注意しないと。
立ち去る前に、もう一度この店を見渡した。石造りの壁に赤茶けた瓦屋根、紫で縁どられた二階の窓からはきっとここにいる僕たちを見下ろせる。ここはゲールの育った家で、僕たちはここに連れて来られた。きっとこの起点が、ゲール本人に繋がる道になるはず――
「コウ!」歩き出したショーンが僕を振り返りながら、早く来いとばかりに腕を振った。僕はぼんやり立ちすくんでいたのだ。慌てて後を追った。
ショーンの見つけたカフェはゲールの家からはほんの数分の距離だったので、開店までの有り余る時間はわざと遠回りして散策することで潰した。大通りには行き交う人がいて、町が確かに息づいていることを教えてくれる。薄手のコートやジャケットを羽織っている彼らを目にして、僕はようやく自分がガウンを羽織ったままの非常識な恰好だということに気づき仰天した。ショーンにしても、室内にいた時のままの薄手のシャツとジーンズだけど、僕よりてんでマシじゃないか。
慌てて脱ごうとすると、「まだ着とけよ。寒いだろ、風邪ひくぞ」とショーンに止められた。「さすがに恥ずかしいよ」と唇を尖らせて抗議する。「店が開いたら上着を買いに行くから、それまでの間だけ我慢しとけよ」と首を横に振られた。
はぁ、と大きくため息をついたけれど、脱ぎかけたガウンは羽織り直した。本当に寒かったのだ。
目当てのカフェはハイストリートと交わる交差点にあった。広場に面していて、店員さんがちょうど店の前にテーブルを出しているところだ。さっそくショーンが声をかけに歩み寄る。
「コウ、もう開いてるって。中に入ろうや」
テラス席には座らず、店内の窓際に陣取った。早くこのガウンを脱ぎたかったのだ。屋内に入ればそこまで寒くはないだろう。もともと僕は寒がりだから、下に着ているシャツも冬物のコットンツイードだし、大丈夫。
手早く注文し、やがて運ばれてきたカフェラテは、綺麗な三つ重なるハートのラテアートが描かれていて心が弾んだし、熱々のベーコンを挟んだバップは僕のお腹にちょうどいいサイズだ。
お腹なんて空かない、そう思っていたのに、緊張や不安よりも空腹が勝っていた。小一時間歩き回ったせいもあるんだろうな。それに、この町の匂い、行き交う人の醸す空気、その生活感が、とても夢や記憶の中とは思えなくて。僕はこのマテリアルな現実感に酷く安心していた。
「あのマーケットクロス覚えてるよ。修道院の近くだろ?」
半分ほど食べたところでがっついていた口を休め、ショーン越しにガラスを挟んで広がる広場を眺めた。ゴシック様式で造られた八角形の小さな尖塔に目が吸い寄せられるようだった。とても繊細で高貴な佇まいが印象的で。
マーケットクロスは市の立つ広場の目印となる建造物で、いろんな町でいろんな形のものがあるのだ、と教えてくれたのもショーンだった。
なんだか懐かしい。本当にもう一度この町にきたんだな、と実感して自然に笑みが零れていた。
だけど、浮かれた僕の想いとは裏腹にショーンは軽く頷いただけで、目を伏せたまま黙々と食べている。食欲旺盛なショーンには小さなバップではとても足りない。ソーセージバップに加えて、マッシュアボカドとサワークリームのトーストも頼んでいる。
「食べるのに忙しそうだね」
笑って言うと、ショーンはまたちらと僕を見ただけで、下を向いてしまった。その彼の眼差しに、はっとした。胃をぎゅうっと握られたように苦しくなった。僕はまたやらかしてしまったのだ。
このマーケットクロスは、ショーンが妹を見失ってしまった、まさにその場所じゃないか――
バップ...イギリスの朝食用ロールパンサンドイッチ




