57.好きでも噛み合わないこともある
けれどそのうち僕たちは喋り疲れ、ただ黙々と階段を下っていた。
やがて「こんな暗闇にいるとさ、いやに昔のことを思い出しちまうな」と、沈黙を破ったショーンの声色は、ミラの話をしていた時とは張りがまるで違っていた。
僕は、この闇のせいで生まれた苛立ちと焦燥を紛らわすために、彼はミラのことを喋っているのかな、と漠然と思っていた。だけど今、その感情は彼のなかで確かな不安へと変わってしまったみたいだ。螺旋階段をくるくる回るばかりで、未だに床に、どころか踊り場にさえ立てない。この現状には、ショーンだって溜まり兼ねているのだろう。
申し訳なさから彼を宥める言葉を探した。けれどもたもたしているうちに、ショーンは、なんだかため息でもついているような口調でお喋りを再開していた。
「俺がまだガキの頃の話なんだけどな、出来のいい兄貴が、Aレベルの試験勉強に必死でさ」
唐突に始まった思い出話に、僕は「えっと、アメリカに行ったお兄さんだよね? 確か、宇宙開発の研究室に入ったっていう」と念を押して訊き返した。
彼が「兄貴」と呼ぶのは大抵、幼馴染や、友達のお兄さんだったりするからだ。ショーンは普段、家族の話題に触れることがほとんどなかったのだ。
「そう、その兄貴。昔から勉強、勉強でさ、俺が一階で騒いでるとさ、二階の自分の部屋からドンッ、ドン!って床を踏み鳴らして怒るんだ。そんなのを2,3度繰り返すとさ、兄貴、カンカンになって降りてくるんだ。俺、怖くてな、棚の中に隠れてたんだ。扉をきっちり閉めてさ。――こんな暗がりのなかで身体を縮めてさ」
こんなふうに昔の思い出を話してくれるのは、イースターの旅以来じゃないだろうか。
僕が知っているのは、ショーンの両親の離婚の際、ショーンは母親に、お兄さんは父親に引き取られて10年来別れて暮らしているということ。それから、お兄さんはとても優秀な人で、この夏、かなりの好待遇でアメリカの企業に引き抜かれ渡米した、という程度だったから、どんな人なんだろうと興味があった。
「お兄さんとは仲良かったんだろ? それでも、そんなに怖くなるほど怒られていたの?」
「ああ、今は仲いいよ。離れてからの方が話すようになったんだ。前はもっと――、何て言うかな――、相手にされてなかった。ほら、年もはなれてるからさ。ほら、ちょっとの年の差で、興味も、遊びも噛み合わないことってあるだろ?」
「僕は一人っ子だからさ。親戚づきあいもなかったし、年の離れた子と遊ぶ機会もなくて。でも、そうだね、こっちに来てからは年齢差で、ていうより個人差で噛み合わないこともあるのかなって思うことは、多いけどね」
「そりゃ、コウはな! 外国に来てるんだもんな! 俺が言いたいのは、そういう意識の差じゃなくて――。今は俺だって兄貴とも普通に、対等に話せるようになったしな。だからさ、昔は年の差や身体の大きさが、そのまま力の差みたいに感じてたってことだよ。だけどそんなのは小さなガキの間だけなんだってことさ!」
そんなことないよ。
そう思ったけれど、口にはしなかった。
僕とアルビーは5歳も離れている。それは僕の中で確かに力の差だ。だけど同い年のショーンとの間にもこの差はあるように感じるから、それは年齢だけではなく経験値の差なのかもしれない。あまり意識して考えることはなかったけれど、体格差も僕の劣等感を刺激するものかもしれない。物理的な力の差は心の強さにも影響するのかも。
「7歳差だっけ? 子どものきみが、お兄さんを大人のように思って力の差を感じるのは当たり前だよ」
「自分がその年齢になればさ、兄貴、ホントに気が短い、キレやすいヤツだったんだなって分かったよ。ま、それだけ真剣だったんだよな。俺だって試験勉強中に気を引くためだけに騒がれたら、そりゃキレるわ! いくら遊んで欲しいからって、そんなもん、本人にしてみれば嫌がらせだよな!」
背後でショーンがハハハって豪快に笑っている。先ほどまでの沈んだ口調とは打って変わって、すっかりいつものショーンだ。
僕もアルビーの年齢になれば、もっと彼の気持ちを理解できるようになるだろうか。それに、ショーンみたいに自分を省みたりすることも。なんだか想像がつかない。彼と僕の年齢差が縮まることがないように、能力差も、心の距離も縮まらないような気がして――
キシッ、キシッと軋む足音がなんだか覚束なく感じてくる。
ほら、分かっているのに。
この薄闇に溶けている、これまで抱えてきた不安に吞まれそうになる。
だけど、ショーンは大丈夫だ。こうして笑い飛ばすことができる。辛い過去も、認めたくない過失も前向きに捉えることができている。
「コウ!」
ショーンが急に立ち止まった。思わず、何事かと振り返りそうになった。だけど、すぐに僕もその理由に気づいて呟いた。
「白檀」
蝋燭の灯が曝け出すわずかな空気が波立っている。流れに、これまで感じられなかった香りが混ざっている。
「俺の家の臭いだ」
ちっ、と舌打ちする音が聞こえた。
これはきっと、彼のお母さんの趣味のお香と同じ。一度、泊めてもらった時に逢ったショーンのお母さんを思い浮かべ、あまり触れない方がいい気がした。
「マーカスの部屋に近づいているのかな。やっとだな!」
続くショーンの声は、言葉通りなら喜ばしいもののはずなのに、苦々しさを含んでいる。彼は嫌味なんか言うヤツじゃないのに。
と、蝋燭の灯が大きく揺れた。
空気は肌に感じられるほどその密度を増して。
手元を僅かに照らすだけだった灯りは、縦に横に伸び縮みし、まるで生きているかのように、何かの形になろうとしている。それも、僕を通り越して、ショーンに向かって!
マズい! 空間が、僕ではなくショーンに応え始めている!
僕のせい? アルのことを考えていたせいで、心が傾いた?
まさか、軸がずれたなんてことは――