56.螺旋階段
気付かなかった。テラスに向かう廊下側から見ると、天井にかなり大きめの換気口があるじゃないか。カウンターの真上にあるレンジフードのせいで死角になっていたのだ。人ひとりくらい十分に通れそうだ。
さすがにこれをドアと考えるのはおかしいかな、と首をひねりながら、僕もカウンターに回りこんだ。そして、全てが逆さまに映りこんだ、てらてら黒光る床をじっと見下ろした。
鏡面のようにクリアに映るそれは、天井にある時と違ってとても換気口には見えない。むしろ床下貯蔵庫のようで。
ほら、指を引っかける取っ手まである。
しゃがんでそのへこみに指をかけた。滑らかな平面に見えているのに、すいっと当たり前に指は鏡面を通り抜けたのだ。そのまま力を入れて持ちあげた。するとそれは拍子抜けるくらい軽く、ひょいとその口を開けた。
あった――
「あったな、入り口」
振り向くと、ショーンがこの黒々とした穴を覗きこんでいた。反射的に、蓋を閉めるべきだ、という警告が脳裏を掠め手の力が抜けそうになった。だけど、ここで閉めたらもう二度と開かなくなるかもしれない。気まぐれなシルフィーやドラコの仕掛けた入り口なんていつ消えたって不思議じゃない。ショーンと行くと決めたのだから、と覚悟を決め「よいしょ」っと蓋を外し横手に置いた。
切り取られた四角い深い穴にあるのは貯蔵品などではなく、細かい傷のある使い込まれた木製の階段だ。
「へぇー、これって床をぶち抜いて下の階に続いてるのか。てことは、下が従業員フロアってことかい?」
関心したように顎を撫でながら、ショーンが僕を見ている。僕は意味が解からなくてきょとんとしてしまった。
「ドラコのやつ、ペントハウスだけじゃなく、下のフロアまで買ってたんだなって驚いたんだよ!」
下のフロア――、ショーンがそう思ってくれているならそれに越したことはないかも。
曖昧に笑って「僕も知らなかったんだ」と言うにとどめておいた。僕は当然知っていたはず、とでも思っていたらしいショーンは、意外そうに眉をあげた。
けれどそれ以上は追求せず、「それにしても暗いな。灯りのスイッチは下に降りないとないのかな? 懐中電灯を探そうにも、あいつらがいないとどこに何があるかわかりゃしない」と、あちらこちら見回している。
よかった。この夏、僕のためにアルのお父さんの館に来てくれてから、彼は以前のようには魔術に関することを根掘り葉掘り聞きだそうとしなくなった。むしろ、気にかかることすら呑み込んで曖昧模糊のままに置いてくれる。それが僕を気遣ってのことなのか、彼自身に起因するのか、僕にはまだ判らないけれど……
その場から離れて姿を消したショーンはすぐに戻ってきた。「これでいいだろ」と、手にした燭台を振って笑っている。
20センチほどの高さの重そうな燭台は、銀、かな? 持ちやすいように竿の中央がくびれて、受け皿と台座にかけて美しく膨らみ、木の葉の装飾が施されている。室内はモダンなインテリアで統一されているのに、こんな凝った造りのアンティークはなんだかこの家にそぐわない。どこで見つけたんだろう、と気になったけれど、ショーンがさっそく蝋燭を燈して暗い穴へと向けたため、この些細な疑問がそれ以上意識に留まることはなかった。
ショーンの持つ燭台の灯りは、ほんの入り口のみ照らすだけで奥の方までは届かない。古い階段はどうやら螺旋構造になっているのが解かったくらいだ。ショーンが僕を促すように見た。僕は「僕が先に行くね」と軽く頷いた。
燭台を受け取り、右側の軸に沿って渦巻く階段をそろそろと下りていった。古びた踏板が一足ごとにキシキシと音をたてる。左側にある木製の手摺りの向こうは、蝋燭をかざしてみても薄靄のような闇しか映さない。これが本当に階下に続いているのだとしたら、こんなにも何も見えないはずはないじゃないか。
「なぁ、コウ、ずいぶん降りてるような気がするんだが。暗いせいかな、感覚がバグってるのかな?」
やがて溜まりかねたような、張り詰めたショーンの声が背後から降ってきた。反射的に「あ、うん!」と僕の声も上ずった。
「長いよね、きっと、これはすぐ下のフロアじゃなくて、アパートメント全体の従業員用の階段とか、じゃないかな」
頭をフル回転させて用意しておいた言い訳を告げる。
「なるほど! 非常階段も兼ねてるのかもな!」
いつまでもたどり着かない事実に納得できそうな答えを得て、彼の声も心持ち軽くなったみたいだ。
降りても降りても途切れることのない暗闇は、まるで黄泉へと続く黄泉平坂のようで。何度も通ったこの道を進むことは僕のなかに不思議な安堵感さえ生じさせてくれるけれど――
今回はショーンがいる。
僕は、しっかり意識を保っておかなければならない。
振り返って、ショーンの顔を見て安心させてあげたい。心の底からそう思うのだが、そうすることで、神話のなかのオルフェウスの逸話のように、この世界に属さない者は弾かれ、あるべき世界に引き戻されるのではないか、という気がしてできなかった。それならまだしも、その逆、帰れなくなることだってあり得る――
ショーンもゲールもそのままの形で連れて帰る。ことの重大さに今ごろになって身震いする。もっとちゃんと考えなければいけなかったのに――
冷静になるためにも、ショーンをこれ以上不安にさせないためにも、気が紛れることを喋っていた方がいいかもしれない。
踏板の軋む音だけで、後ろにいるショーンの存在を確かめているなんてことが、今さらながら怖い。
「ショーン」
「なんだ?」
「えっと、あの、ミラが来てびっくりした」
僕は、言うに事欠いて、なんてマズい話題に飛びついてしまったんだ!
「ああ、言っとけばよかったな」
「知ってたの?」
「ああ、来るって、どっちからも聞いたよ」
「どっちもって、本人からってこと?」
「ああ」
このふたり、あんなことがあったのに、未だに話すことがあるという事実に驚いた。だけど、そこからショーンは、ミラのことを賑やかにとめどなく喋り始めたのだ。彼も僕と同じように、どこまでも続くこの暗闇の吞み込まれそうな不安を吹き飛ばしたかったのかもしれない。




