55.やれることからやるしかない!
「コウ、平気か? また気分が悪いんじゃ? ほら、座れよ」
こんな僕の煮え切らない姿勢をショーンは誤解してしまったようで、カウンターチェアをひいて座面をポンと叩いてくれた。
そうだ、悩んでいたって仕方がない。とりあえず、入り口だけでも見つけないと。
言われるまま腰かけ、握りしめていた拳を黒曜石の天板に開いて置いた。ひんやりとした心地良さが肌を通してヒートアップした脳を冷ましてくれる。
僕を急かすことなく待ってくれているショーンに応えるために「マーカスの部屋は――」と声に出してみたのだが、続かなかった。そこに関する記憶だけ、どこか霧のなかにあるみたいではっきりしないのだ。これを手繰り寄せるには意識的な作業がいる。
ちらっとショーンを見やり、息を整え、眉間に集中して目を瞑った。
今回の改装でマーカスは「僭越ながら、手前どものお部屋もご用意させていただきましたとも! ハムステッドのお宅は通いでしかいられませんでしたから、とても残念でございましたとも! こちらのお宅では、いつでもご存分にお世話させて頂けますとも! 恐悦至極でございますとも!」といつもの緑の制服を着た胸を反らし、嬉しそうに報告してくれていた。
そしてバーナードさんとの今日2回目の面談前に、僕が倒れたことを過分に受け取った彼が、何かあったらいつでも呼んでくれ、とその部屋の場所を教えてくれたのだ。いつもの音符が跳ねるような抑揚のきつい声を、誰にも聞かれたくないないしょ話でもするような掠れた声音に変えて。
確か――
「キッチンのドアから続く廊下のどんつきって言ってたんだ」
丸めていた背を正して、カウンターチェアをくるりと回した。天井から床へと視線を滑らせる。天然木の梁に絡みつく蔦の茂みに隠されたダウンライトが、黒々とした床を煌めかせている。その緑と黒を繋ぐ空間、キッチンの壁にぐるりと張り巡らせた継ぎ目のない鏡。それだけ。どこもかしこも仕切りを取り払った改装で、ご多分に漏れずこのキッチンにもドアはない。鏡に、テラスの出入り口のドアが映っているだけ。
マーカスの口ぶりから、彼の部屋が普通にこの建物の一室にあるわけではないことは容易に想像がついていた。彼の意味するドアが、あちら側へ繋がる扉だということも。でもそれは魔法陣や象徴ではなく、普通に出入りしておかしくないドア、今回の改装で取り付けられたドアだ。そして、物理的にこの室内にあるもののはず。
――なのだが、実際この場に来てみると、こんなにも判りにくいものだなんて!
どのドアが入り口に繋がるのか、もっとちゃんと聴いておけばよかった! 寝ぼけていて、ろくすっぽ聞かずに流していた自分が、ほんと恨めしい。
さっと見回して見た限り、オーソドックスな異界の入り口といえる鏡が一番怪しい。改装で鏡だらけの設えになっているところからして、仕掛けるならここだろう。
けれど、鏡に映るテラス入口のドアは、カウンター越しの鏡壁にも向かい合わせに映り、それが別の壁の鏡にも映り――、鏡のなかにはいったい、いくつのドアがあるんだろう。さらには、音楽室の可動式の壁もドアとして数えるなら。
始める前から投げ出したくなる気持ちをゲールへの申し訳なさで塗り込めて、カウンターチェアを滑り降りた。
とにかく、全部触ってみるしかない。
簡単に触れる場所から鏡に映るドアを一つ一つ押してみた。ショーンが怪訝な顔をして僕を見ている。でも、上手い説明を思いつかなくて、背中で視線をひりひり感じながら黙々と鏡を触って回った。
「ああ、この鏡が隠し扉にでもなってるのか?」
頭の上に落ちてきた声に思わず「うわ!」とのけぞった。いつの間にか背後にショーンが立っていたのだ。自分の手許ばかりに集中していてまるで気づかなかった。
「ふーん」
ショーンも手のひらを鏡に滑らせたり、コンコンっと叩いてみたりしている。
鏡に映ったドアが開く――、なんて言ったらぎょっとするだろうけれど、そこに何らかの仕掛けがあると思ってもらえれば、現実との違和感を持つことなくすんなり入り口を通り抜けできるかもしれない。
「うん、多分そういうことだと思う。ドアって言われても、ここにはドアはないもの」
無難にそういうことにさせてもらおう。
「やっぱりな。ドラコにしてもそうだけどさ、あいつらも一筋縄ではいかないんだな」
苦笑いしているショーンは、逆にこの状況を楽しんでいるみたいだ。さっきも言っていた通り、ゲールが攫われたとは思っていないのだろう。
「これもドアっちゃドアだな」
ショーンはカウンターの後ろへ周り、彼の背丈さえ優に超える冷蔵庫の銀色のドアを開けた。
「なんだ、上手い食い物でも入ってるかと思ったのに、果物ばっかりだ」
文句をつけながら、しっかり手にはマスカットの粒を摘まんで口に持っていっている。僕はあらかたドアを押し尽くし、もしかしたらこれが、と期待で胸を含まらせて、鏡に映る銀色のドアが開く瞬間の隙間――正しくはその向こう側――に目を光らせていたのだが……、残念ながら何も変化は起きなかった。がっかりだ。
「ほら」と呼びかけられて振り返ると、カウンターに置かれた皿にマスカットや苺、洋梨や林檎が無造作に置かれている。
「果物くらい食っておけよ。少しでも腹に入れておいた方がいいぞ」
「むしろ逆。食べ過ぎでむかむかしてるくらいなんだ。でも、お水を一杯もらってもいいかな?」
胃の辺りを摩りながらカウンターに肘をついてもたれかかった。つい、苦笑してしまう。
アルにしてもショーンにしても、どうして僕は何も食べてないって思うんだろう、て。
あ、そうか。マリーとミラに挟まれたバーナードさん、それに僕、というやりにくい面子でのアペリティフタイムに、僕が居た堪れなさから前菜を食べまくっていたのを後から来た二人は知らないのか。
ふとバーナードさんのことが気になった。あの場ではあんなにはっきりと彼女たちと線を引いていたのに。さっきはむしろ気をひく素振りでくだけていた。
酔っていたのかな。
あんなしっかりした人だって、酔っ払うことがあるのかな。
「それゃ、あるだろ」
ん、とショーンを見上げた。
声に出てた?
「彼のことだろ、バーナード・スペンサー」
うん、と頷く。
ショーンがいつもの癖でくるんと天井を睨み、腕を組んだ。僕も釣られて天井に目をやった。そして、「あ」っと息を呑んだ。




