41.私の可愛い妖精さん
体にかかる空気圧から解放され弾む息を整えている間も、こんな疑問ばかりが頭を支配する。
ドラコのやつ、いったいどういうつもりなんだ!
それに、どうしてまたここへ送り込まれてしまったのだろう、って。
梢にかかる月が辺りを煌々と照らしていた。地面に刻まれた樹々の影は、息をひそめた漆黒の影絵みたいで。蒼白く染まる静寂に自分の息遣いだけがひどく異質に響いている。
この情景に既視感があった。
だから、ここがどこだかすぐに察しがついたのだ。
懐かしい草の香り。僕を囲む樹々のカサコソとした囁き。ジーンズを通して湿った土の柔らかさがひやりと染みる。
だけど、先ほどまでのきんと冷えた晩秋の空気とは違う。季節は柔らかな常春だ。
そう、ここは……
「あら、また迷ってしまったのね、可愛い妖精さん」
ふいに落ちてきた弾むような明るい声と、覗き下ろしている白い顔に、おもむろに瞳をあげた。
そう、また戻ってきてしまったんだ。
――アルと二人でこの環は壊したはずなのに。
「そんなところに座っていると、夜露に濡れてしまうわよ」
差しだされた綺麗な手も変わらずに。
白魚のような、とはよくいったものだと思う。しなやかに水のなかを泳いでいるような指が、僕の眼前で催促する。
僕はまた同じように、この手を取るしかないのだろう。ドラコの意図が読めるまでは。
彼女の後に黙って続いた。心得たもので、彼女は朗らかにおしゃべりしてくれる。こんな僕を不躾だとも思わないでいてくれる。これまでと変わりなく。
ほどなくして着いたのは、見覚えのある高い煉瓦塀、そして黒い蝶番で装飾された樫の扉だ。鍵はかかっていないらしく、彼女は薄闇のなか浮きあがるように白い手で扉を押し、「さあ、どうぞ」と僕を招き入れてくれた。
扉をくぐると、やはり、変わらない薔薇の香りが僕を出迎えてくれた。と同時に、一面の白薔薇に透き通る青い焔が記憶の中で重なった。焔から逃げようと身もだえするように揺れ、燃え落ちる、悪夢のように美しい花たち。
「あら、前はもっと喜んでくれたのに、お花に飽きてしまったのかしら?」
少し寂しそうに彼女が笑う。僕は作り笑いで頭を振った。
「彼もそうね。白薔薇にも、もう飽きてしまったのかもしれない」
独り言のように囁かれたのは、僕に向けられた言葉じゃない。だから僕は、この憂いを含んだ呟きを受け取ることなく聞き流してしまった。そして、無理やり苦い記憶の扉を閉めて、今、考えるべきことに意識を向けた。
ここは、いつなのか、ということに。
心優しい彼女は僕を「妖精」と呼んでくれるけれど、ここでの僕の立場は、「この世の者ではない者」「招かれざる者」だ。結界に守られたこの塀の内側に、自力では入れない。
本来なら結界を無効化する儀式は一度で事足りるのだが、僕は現実とここを行き来する度にこの塀に阻まれてきた。
彼女はこの特殊な事情を理解していた。だから僕のことを覚えているにも拘わらず、毎回こうして声をかけて招いてくれた。それはとりもなおさず、ここでは時間の流れが継続していないことを彼女が知っていることを意味する。
ただ一人、彼女だけが時間の止まったこの世界で、繋がる記憶を持っているのだ。
彼女だけが、この世界での実在。
それにしても、ここは、いつの狭間なんだろう?
僕とアルが破壊した、人形のなかにあった「虹のたもと」のはずがないのだ。
時を遡ったのだろうか?
人形を壊す前なら、それも可能だったかもしれないけど。
いや、まさか。
でも、そのまさかをやってのけるのがドラコだ。
どろどろに溶けて燃え落ちたはずの館が、謎を吐くスフィンクスのように泰然と僕を見下ろしている。作り物の世界が、光量調節のスイッチを捻ったように白々と輪郭を露わにしていく。
――アーノルドの夢の世界。
そうとしか思えない。
そこに囚われていた彼の最愛の人、アビゲイル・アスターがふっと僕を振り返り、にっこりして言った。
「お腹、空いてない? 朝ごはんをいただきましょうよ」
それまでぼんやりと、どこか虚ろで儚げな眼差しで朝靄のかかる白薔薇の垣を眺めていた彼女が、笑みを湛えたとたんに神々しく輝く女神のようで。僕はつい、恥ずかしさで目を逸らしてしまった。
アルビーと同じだ。彼女もその美しさで人の心臓をバクバクさせる天才だ。そんな彼女を、僕はアルビーに申し訳ないほど知っている。それでもいまだ慣れない。
永遠の環のなかにいてさえ――




