2.大人過ぎる元カレ
「コウ、申し訳ないね、待たせてしまって」
「いえ――」
穏やかで優しい声に、反射的に伏せた目線をそっと上げる。強張った頬を無理やり笑顔に作り替え、ひょこりと頭を垂れた。
視界の真ん中の三角に、赤いうねりが逆回転して戻ってくる。
水中から顔を出した時のように鮮明にトーンが上がり、街が息を吹き返す。
僕の開けた三角の穴は、彼のまとう爽やかなコロンの匂いになぶられて剥がれ、一片の鱗のようにひらりと散った。
否応なく僕を現実に引き戻す、にこやかな笑みを湛えて腰を下ろす彼の所作は柔らかで、温もりに満ちている。髪色と同じシックな栗色のジャケット、その下の濃い黒柿色のタートルネックが、イギリス人らしい長身に広い肩幅と相まって落ち着いた趣をかもして、いかにもインテリ然としている。それに、小さなカフェテーブルには収まりきらない長い脚。綺麗に磨かれた革靴から覗く靴下はネイビーブルー。おしゃれだな、って思う。
でもこの彼を前にして、僕の心臓はギュッと握られたように縮こまってしまう。それも仕方ないよ。どう考えたって理不尽だもの。
「コウ、大学はどう? そろそろ慣れてきたころかな?」
僕の内心のもどかしい叫びに気づいているくせに、彼は前回と同じような屈託のない笑みと優しい言葉をくれる。さりげなく窓越しの店内や周囲を一瞥しているのに、微笑みを崩さない。
花溢れるパステルピンクの――。
このカフェを指定したのはマリーであって、断じて僕じゃない。そもそも彼女の目当てがこの人で、自分がロマンティックな気分に浸りたいから、ここで逢うことになったのだ。
それなのに本人はいなくて、男二人が向かい合ってるなんて。彼は上から下まで秋色を纏って、こんな場違いな常春空間に踏み込まされているのに、不満を見せる素振りもなければ違和感さえも感じさせないのだ。
このどこまでも大人な彼は、バーナード・スペンサー。
アルビーの所属する精神医学研究所の先輩だ。だけど、ただの先輩後輩であるはずがない。アルビーとこの人が二人でいた時の空気が教えてくれた。それはどんな他人も、たとえ僕であっても立ち入らせないほどの濃密なものだった。
アルビーも解らないけれど、この人もたいがい解らないよ。傍から見ても分かるほどアルビーと親密な関係だったのなら、今、彼と付き合ってる僕のことをよく思わなくたって不思議じゃないのに。アルビーは誤解だって言うけれど、この彼がアルビーのことを諦めたとは、僕にはどうしたって思えない。
それなのにこんな――、僕の大好きな、心から愛おしいと思う、大切な恋人アルビーの、こんなにも大人過ぎる元カレと、毎週、お茶しなきゃいけないなんて。
いったい何の罰ゲームだっていうんだよ。ひどいよ、アルビー!
でも――、
――信頼できる先輩に日常のあれこれを報告して、相談してほしいんだ。コウは、誰かに頼ったり、甘えたりするのが苦手みたいだからね。きみのそばにいてあげられない僕を安心させて。ね?
という、アルビーの頼みをむげに断ることもできなかった。いろんな面で不安定な僕のために、真剣に考えてくれてのことだもの。
それに、夏の間中、僕は彼に多大な迷惑をかけてしまったから……。
このことを考え始めると、僕は深い穴に吸いこまれるようにどこまでも落ち込んで、抜け出せなくなってしまう。
「コウ」
「は、はい?」
だから、そうなる前に、彼は僕の不毛な煩悶を止めてくれるんだ。まるで僕の頭に流れる言葉の打つ句点を待ち構えていたかのように。
小首を傾げて、彼の視線は中央に置かれたケーキ皿を見ている。カプチーノは飲み終えそうなのに、看板メニューのカップケーキは手つかずのまま。そんなことを気にしている。
え、と、これはマリーのなんだけど――。
「ここのケーキ、見た目ほど甘くないよ。きみの口にも合うと思う」
大きな手のひらの先でカップケーキの皿をついっと僕によせ、にこにこと笑う。
気遣ってくれる彼の口調にも、柔らかな灰色の眼差しにも嘘はないって解るから。
「あ、はい。いえ、えっとこれは、」
僕も、こんなふうに疑り深くなっている自分自身を恥ずかしく感じてしまって。
他愛ない日常のあれこれを、ついつい喋り始めてしまうんだ。
そして、いつの間にか、彼の作りだす不思議な時間に絡めとられてしまうんだ。