16.金鳳花の花畑
午前中で講義を終えた僕とショーンは、昼食を済ませると一足先にナイツブリッジにやって来た。
マークスも先に来ているはずだ。昨夜のうちに伝えたので、すでに部屋はピカピカに磨かれ、生花もふんだんに飾られて準備万端整っているはずなのだが。
白薔薇――!
部屋に入るなり飛び込んできたのは緑豊かな天井だった。その緑をところどころ白抜きするように、花開く。
彼らは本当にこの花が好きなんだな……。花というよりも、アルビーか。それともアルビーのお母さんを偲んでいるのだろうか。
僕は少し、この白薔薇を見ると感傷的な気分になるのだが。
はぁ、と深呼吸のように息を吐いて吸い、見上げたまま唖然としていた自分を取り戻した。
「マークスありがとう。とても素敵だ」ダイニングに続く階段口に誇らしげに立っていた彼に、満足げに微笑んでみせる。
「恐悦至極でございますとも!」
ぱくぱくと動く口、腹話術の人形みたいだ。
さすが家付き妖精だけあって、模様替えの腕前は本当にすごいな、って思うけど。
なんだかこのギャップに笑いだしてしまいそうだ。さすがにそれは失礼だなと思い、彼から目を逸らして再び室内に視線を泳がせた。
頭上高くで、重なり合う緑の葉が眩く光る。清々しい空気を生み出してくれている。光源はお日さまではなく、小さなダウンライトのはずなのに、緑の隙間から漏れる木漏れ日みたいだ。
葉陰が天井の魔法陣をうまく隠してくれている。おまけに室内に薔薇のつる棚を作ったことで、メインリビングはぐっと居心地良い空間になっている。副次的効果大だ。僕の感傷は横に置いて、申し分なし、としなければならないだろう。
あ、僕はこの部屋はリビングだと思っていたが、マークスはレセプションルームと呼んでいる。お客さまを接待するための部屋ということらしい。
カーペットも緑を基調とした複雑なペルシア模様のものに替えられ、テーブルや壁際にも煩すぎない程度に、白薔薇のアレンジが活けられている。添えられたデルフィニウムの青が爽やかで。
でも、なんだろう、この違和感は――
室内から黒縁の大きなガラス窓を眺めたとき、なんだか空が遠い。ガラスに閉ざされたこの部屋は、花に埋もれて横たわる白雪姫の棺みたいだ。
ふとそんな思いがよぎった時、壁よりにいたショーン越しに、ふわりと優しいパステルカラーの色合いが目に入った。なんだかほっとした。棺がちゃんと部屋に戻ったようで。
「壁の額も変えてくれたんだね」
確かにこの緑豊かな部屋には、元々あったモノトーン写真のモダンな額は不釣り合いだろう。
ショーンは、まじまじと絵に見入っている。
「おい、これって――」
「なに? 知ってる作品?」
彼に並んでその絵を正面から眺めた。
僕も、あっと息を呑んだ。
金鳳花の黄と緑にぼやけた大地。夢のような蒼空――
景色のなかに腰をおろした彼女の、目をつぶってそよぐ風を受ける横顔。長い黒髪をされるがままになびかせて。蝶の薄羽を広げたような白桃色のドレスに包まれた妖精の軽やかさを感じさせる女性。
アビゲイル・アスター。
白雪姫と呼ばれた美しい人、アルビーのお母さん……。
絵だと思っていたそれは、退色したようなくすんだ色調のポスターだったのだ。
「アルは嫌がるんじゃないかな」ぽつりと呟いた。ショーンも難しい顔をして頷く。「今日は俺たちだけじゃないしな」
ゲールも、マリーの友だちも来る。それにバーナードさん。
「これをここに飾りたいなら、アルの許可をもらわないと」
くるりと振り返って、直立不動の彫像のようにそこに控えていたマークスに告げた。
「泣いてもだめ。アルが嫌がることはしないで」
プルプルと全身を震わせ、下瞼に涙をいっぱいに貯めて、大きな口を横一文字に引きしめているマークス……。
可哀想だけれど、これだけはだめだ。
アルビーは、見知らぬ相手に亡くなったお母さんのことを触れられるのを、何よりも嫌う。まさしく彼の地雷。僕は何度も踏み抜いて、さんざん彼に苦しい想いをさせたことがある。だからもう骨身に染みて解っている。これは絶対ダメなやつなんだって。
それに僕も嫌だった。
彼女が、人目に晒されるなんて……。




