13.一等地が生活しやすいとは限らない
この8月以来久しぶりに、ロンドンに戻って来てからは初めて、ここへやって来た。ハイブランドの店が軒を連ね、ロンドンどころか世界でも有数の地価を誇る高級住宅街ナイツブリッジ。その一角にある、白い窓枠の連なる瀟洒な赤煉瓦の建物を道端から見上げた。ため息がでるほど壮麗。外観からしてこの地区に相応しい威厳がある。
ドラコが衝動買いしたのは、そんな、ちょっと普通じゃないレベルの立地にある超贅沢アパートメントなのだ。
そしてこの夏中、僕が寝込んで――正確には眠り込んで――しまうきっかけとなったいわくつきの場所でもあるので、ここへ来るにあたってショーンが心配してついてきた。
それはともかく、専用エレベーターを下りて部屋へ入ってからの「うわ! すげえ!」という感嘆とも侮蔑ともつかない呟きは彼のものだ。入ってすぐのリビングの窓からは、一見地面かと見紛うような深い焦茶のウッドデッキのテラスが続き、広大なハイドパークの緑を我が家の庭とばかりに見おろせるのだ。
気持ちは解るよ。
こんな冗談みたいに豪華な、それでいて無機質な家。たかだか「通学に便利だろ」なんて理由で買うようなものじゃないだろ。それにこんな上流社会な地区じゃ、普段の買い物に困るじゃないか。いくらハロッズが目と鼻の先だって、僕ならあんな高級デパートで買い物なんてしない。
と、ここではたと気がついた。
ここって、本当に便利なのかな、僕らのような普通の大学生には、かえって生活しずらいんじゃないの――。
ショーンに尋ねると、「別に買い物は問題ないだろ。どうせ食事は学食で済ませるだろうしな。地下鉄は目と鼻の先だし、ここからならキャンパスまで自転車でも通える。便利だよ。俺もここに住もうかな」とまんざらでもない顔をしている。
ショーンは、どうも最近浮かない顔をしていることが多い。家ではそんな気分をあまり出さないようにしてくれているみたいだけど、今も少し皮肉を含んでいるような顔つきだ。
少しマリーと距離を置きたいんじゃないかな、そんな気がする。
毎日の食卓でもお茶を飲んでいる時でも、マリーはバーナードさんのことばかりだ。その度にショーンは蚊帳の外に置かれて。面白くないだろうな、って思う。話を逸らそうとしても、人の話を聞かないことでは誰にも負けない彼女に、僕は太刀打ちできない。
ごめん、ショーン。
だから申し訳なくて、つい、「うん、いいんじゃないかな」なんて言ってしまった。そんな気なんてまるでないのに。
ショーンは足を止め、唇の端を幽かに歪めてなんだか困惑したような、そんな顔をした。
まさか、ショーンがいない方がいい、とでも僕が思っていると誤解されたんじゃないかとはっとした。すぐに取り繕うように言葉を継ぐ。
「でも、ここに完全に移ってしまうんじゃなくて――、そうだ、たまに管理人として出入りしてもらえないかな」
「でもきみは、」
「きみまでいなくなったら淋しいから」
ショーンの微妙な表情を和らげたくて、つい本音を吐き出してしまった。ショーンは判るか判らないほど眉を寄せた。誰が、って訊いているのだと思った。
「僕が。もちろんマリーだって!」勢いこんで答える。
「いや、俺が言いたいのはさ――」ショーンはくしゃりと苦笑いして軽く首を横に振る。「さっきのは冗談だよ。きみの傍を離れないってアルと約束した。ここに住むってわけにはいかないよ。でも確かにここを放りっぱなしておくのもよくないと思う。俺でよければ時々様子を見に来るよ」
一通り部屋を見て回り、メインリビングへ戻ってきた。ショーンは白い革張りのソファーにどさりと腰を下ろすと、背もたれに両腕をかけて背中をあずけ、ずり落ちそうな姿勢でくつろいだ。立ったままの僕は見下ろす形だ。
手足を大の字に広げたショーンは、立っている時以上に大きく感じる。1年を通じて着ているティーシャツの半袖から伸びるたくましい腕には、綺麗な筋肉の線が浮いていて――、
「あれ、消した方がいいんじゃないか? かまわないなら俺がやろうか?」
突然向けられたショーンの険しい視線に、「あっ」と声をだして天井を見上げた。
魔法陣。
焼け焦げた黒い線の描く見慣れない文字や神秘的な模様は、馴染みのない人には、不快で不安をかき立てる印象を与えるかもしれない。
「そうだね……」と曖昧に応えた。
消せるのだろうか。どうも疑問だ。サラに頼まないと無理なんじゃないだろうか。だけどサラは、消すことに同意しないだろう。
「さっき俺が考えてたのはな、ここにさ、普通のヤツを入れて本当に大丈夫なのかなってこと。ここはドラコの持ちものなんだろ?」
警戒してるとも感じられない淡々とした口調だけど、ショーンは天井を凝視したままだ。
スポーツ選手みたいにかっこいい見栄えをしているのに、ショーンは僕と同じ民俗学、もっといえば魔術おたくだ。
僕との違いは、彼はこんなことにも敏感に気づいて、普通の人に対して繊細な気遣いができるってことだろう。きっと見た目からじゃ判らない。
優しくて頼りになるこんないいやつが、僕の友だちでいてくれて良かった。こんなことでも僕は随分助けられている。
ショーンの疑念を払拭しなければ――。
「これを心配して言ってるんだよね?」
僕も首をぐっと反らせて天井の魔法陣、――僕たちの扉を見据えた。




