第一覚醒【智慧と青雲の魔術師】
呆れたように嘆息をつくエドガー様がから『どうにかしろ』といいたげな視線が飛んでくる。
ソファーから立ち上がってエドガー様を睨みつけているお兄様。私は苦笑しながら、その腕にそっと触れた。
「お兄様」
「……リディア」
「お兄様は、私を応援してはくれませんか? 私、お兄様に恩返しをしたいんです」
いつも私のことを想ってくれて、結婚適齢期を超えても私と一緒にいたいからと縁談を断ってくれているお兄様。
私がお兄様の枷になってるのは知っている。
だからこそ、私はお兄様に報いたいの。
「そんなことはしなくていい。君はずっと、笑って、そばにいてくれるだけでいいんだ。兄は妹を守るのが当然なんだ。君は私に守られていればいい。何もしなくていいんだ」
「お兄様。どうしてそこまで私を気にかけてくれるのですか? ホーネスト伯爵に捨てたれた私は、本来なら伯爵家と二度と関わることもなかった。それなのにどうして、お父様の目を盗んでまで、私に会いに?」
ずっと不思議だった。
幼い頃から、暇さえ見つければお師匠様のお店に通いに来ていたお兄様。
私が物心ついたときには、すでにお兄様はもう一人の家族だってことを認識していて。
どうして、貴族籍から追放された私に、優しくしてくれるの?
じっとお兄様を見上げれば、お兄様の琥珀色の瞳が揺れて。
私の頬へと指を添えたお兄様は、ぽつりと教えてくれた。
「……母上との約束だった。産褥の中、母上は死期が近いことに気づいていたんだと思う。君を、守るようにと。たった一人の妹を、母のいない妹を、自分の分まで愛してやるようにと」
切なそうに、恋しそうに、思慕の情を思い返すように、お兄様が微笑む。
そう、だったんだ。
私を生んで、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまったお母様。
そのお母様の言葉で、お兄様はずっと私のことを気にかけてくれていた。
「私はもう、子供じゃないですよ。お兄様に守られなくても、自分の足で歩けるんです」
「分かってるよ。分かっているけれど、でも、どうしたって君は、私の大切な子に変わりはない。君が苦しむと分かっていて、その道を歩ませたくはないんだ」
優しい、優しいお兄様。
私を想って、私に来るだろう未来に心を痛めて。
私よりも、私を大切にしてくれるお兄様。
私はそんなお兄様の妹に生まれて、本当に良かった。
「お兄様。愛しています。私のことを沢山、沢山考えてくれるお兄様が大好きです。ですが私だって、愛するお兄様が安寧であることを願ってるんです。犠牲なんかではなくて、私が望んで妖精女王になりたいんです。がんばってと、リディアを応援してはくれませんか?」
「……君も大概、強情だね」
お兄様の肩から力が抜ける。
私の強情は、お兄様譲りだもの。
安心してもらいたくて微笑むと、お兄様は嘆息し、腕を降ろす。エドガー様がお兄様を一瞥し、私を見た。
「本当にいいんだな」
「はい」
エドガー様の深い海色の瞳が私を射抜く。
私は顔を上げて、背筋を伸ばして、エドガー様を見上げた。
エドガー様の指が、私の顎へとかかる。
くん、と上向かせられると、エドガー様の顔がぐっと近づいて。
「――気の強い女は嫌いじゃない」
耳元をくすぐる声。
目を瞠ると同時に、視界が柔らかな金色に染まる。
「エドガー・アークライトは、【妖精の卵生み】シャン・デ・リディアを世界樹に捧げる」
そっと目をつむると、左眼の下に温かいものが触れる感触がした。
エドガー様の吐息が頬に当たる。
もしかして口づけされた?
驚いて、目蓋を、ひらいた、ら。
「い、あぁぁっ!」
「リディア!?」
瞳が溶けそう!
耳が熱い!
お兄様の声が聞こえた気がしたけれど、それが本当にお兄様だったかわからない。雑音が酷くて、まるで人混みの喧騒の中にいるみたい。
痛いと感じたのは一瞬だった。
ぷちん、と糸を切るように唐突に私の瞳と耳を貫いていった、灼熱のような痛み。
それは私の身体を作り変えるように溶かし、再構築してくような感覚で。
それがあまりにも一瞬で駆け抜けていったから、痛みとして認識したような。
私はうめきながら、そろそろと目蓋を開いてみる。
眩しい。
まず最初に思ったのは、視界の明るさ。チカチカとあちこちで何かが乱反射している。その光が視界を遮って、手を伸ばすその距離ですら、明滅で遠近が狂いそう。
「おい、大丈夫か」
「えどがー、さま?」
肩を揺すぶられて、正面にいる人がエドガー様だったことを思い出す。
エドガー様は私の顎をもう一度持ち上げ、上向けた。
私の顎を掴む手とは反対の手が、瞼に触れてくる。
「焦点が合っていないな。……瞳の色が濃くなっている。虹彩も……なんだ……星か? 七色の、粒子のようなものが散っているな。それと耳。これは伝え聞く、耳長族のものか?」
ぶつぶつと何事かぼやいているエドガー様。
どうでもいいんですけど、眩しくて目を細めたいのに、こじ開けようとするのはやめてもらえませんか……?
耳の方だって相変わらず雑音が酷くて、エドガー様のお声もよく聞こえない。
「おい、妖精としての感覚はあるか?」
「いい加減にしてくれるかい? リディアの悲鳴を聞いただろう? あんなに苦しそうにしていたのに、君には人の心はないのか!?」
「うるさい。一瞬だっただろうが。ずっと叫び狂ってるなら考慮するが、そうではないだろう。おい、小娘。どうだ」
淡々としたエドガー様の声と、怒りを孕むお兄様の声。心なしか、お兄様の近くで暗い色の光が爆ぜているようにも見えて。
私がなんとかお兄様の服の裾を掴むと、お兄様ははハッとして膝を折って、私に視線を合わせてくれる。
「リディア、大丈夫かい? 痛いところは?」
「大丈夫です。痛みは一瞬だったから。だけど目がおかしいの。耳も……」
「なんだって」
お兄様の声に険しさが乗る。
またパチパチとお兄様の周りで暗い色の光が弾けてる。
「おかしいとは、どんな感じだ」
「光が多くて……筋だったり、靄のようだったり。チカチカ光っているのや、ぱちぱち弾けているのとかもあります。それのせいで、あんまり目が見えなくて」
「耳は?」
「人混みにいるような喧騒が聞こえてきます。会話のようにも、歌のようにも聞こえて……それのせいで、エドガー様のお声も、お兄様のお声も、遠く感じられます」
ふむ、とエドガー様が腕を組む。チカチカとまたたく輝き。お兄様のところには暗い色が多いのに、エドガー様には明るい色が尾を引いて流れていて、まるで流れ星のよう。
「視界を借りるがいいか?」
「視界を借りる?」
「感覚共有の魔術を使う。いくぞ」
まだ了承もしないうちから、エドガー様は魔術を使われる。光の奔流が私を襲いかかってきて、思わずギュッと目を瞑ってしまった。
「馬鹿か。目を開けろ。視界を借りたいと言っただろう」
そんなこと言われても!
光というものは暴力だ。あまりにも眩しすぎると、目が痛くなる。
そろそろと目を慣らすようにしてまぶたを押しあげた。私の周りの光が一層強くなってる。七色に光るその光たちを目で追っていれば、エドガー様の動く気配がして。
「神官長。妖精覚醒の段階においての詳細は分かるか?」
「守護者によって覚醒の種が変わるとは聞いております。妖精や精霊種との交信能力の獲得、世界樹との接続能力の獲得、妖精としての特殊能力獲得、魔力操作能力向上にともなう器としての身体的強化。全ての覚醒を終えた瞬間、魂が人の領域から解脱し、妖精種としての概念へと変化すると聞き及んでいます」
ロジェ様の声。やはり遠くて聞き取りづらいけれど、とても大切なことをおっしゃっているのは分かった。
光の奔流が引いていく。
覚醒直後くらいの状態にまで光の明滅が落ち着けば、だいぶ人の輪郭を捉えられるようになっていて。
「ならこの覚醒は妖精や精霊種との交信能力のものか。小娘、お前が見ているその光は精霊だ。地水火風の原始四属性以外にも光闇の創世属性も見えている。聞こえるという雑音は精霊の声だろう。日常生活に差し障るなら、制御の訓練が必要になるな」
これが、精霊?
周囲を改めて見渡せば、くるりくるりと楽しそうに跳ねる光たち。ようやく私の身に何が起こったのかが分かってほっとする。この一つ一つが、精霊なんだ。
「お兄様。これはもしかして、お師匠様が見ていた景色なのかしら」
手を伸ばして光に触れる。
残念ながら、触れても指先をすり抜けていく光には感触なんてものはなくて。
妖精や精霊が見えていたお師匠様。
そのお師匠様と同じ景色を見ることができたのなら、妖精になるというのも、決して悪いようなことではないようにも思えてきた。