ふた
乗り換えのために急ぎ足で駅構内を歩いていたとき、ふっと懐かしい匂いが通り過ぎて、思わず振り返った。
香水のように取ってつけた匂いではなく、まるでその人そのものであるような、自然な匂い。
偶然の出来事だったとはいえ、はじめて彼の香りに包まれたとき、もう戻れないと思った。
彼のことが大好きだった。
他のものは何を差し出してもいい。
ただ彼だけは、他の誰のもとにも行かせたくなかった。
その隣にいま私がいられなくても、他の誰かが彼の隣に立つことだけは阻止したかった。
だから彼の返事を、彼のいちばん近くで待ち続けた。
何度か遊びにも行った。
常に彼と肩が触れ合う距離の中で、彼の匂いを独り占めした。
あらためてその匂いを感じるとき、私は世界でいちばんしあわせな女だと思った。
彼との最後の会話は電話だった。
真面目な顔で話をしながら、彼の匂いを間近に感じることはもう無くなるのかと漠然と思った。
でもそれで良いのだと思い込んだ。
またその匂いにふれたら最後、どうしようも無い悲しみと不安に襲われることは分かっていた。
だから、その思いに蓋をした。
そして今。
駅構内ですれ違った人の中に、彼の姿は見当たらない。
何度目だろうか。
いるはずもない彼の姿を、匂いに求めているのは。
そろそろこの蓋も壊れてしまいそうだ。
また彼との思い出に浸りながら涙を流す日々が来るのも、そう遠くはないだろう。
そっと割れかけた蓋の表面を撫で、足早に改札を通り抜けた。