『菜の花畑のピクニックに抜け出して』上
春の陽気に、心地よい涼しさの風が吹き抜ける。
春と夏の中間地点。蝶がひらひらと飛び、毎日どんどん作物が成長して行く、一年で一番畑仕事が楽しい季節。
「……一番好きな季節が来ているのにも気づかずに、私は過ごしていたのね……」
遠くを見てつぶやく私にリチャードは目を細め、ランチボックスの蓋を開く。
中には鮮やかな野菜と薔薇の形に整えられたハムが挟まれたバゲットサンドに、皇后陛下特製レシピによるピクルスとポテトとツナのサラダ、2段めには瑞々しいオレンジにおやつのクッキーまで入っていた。
「可愛い!」
歓声をあげていると、従者の人が私たちにお茶を淹れてくれる。彼らが遠くなったところで、リチャードは私にバゲットサンドを手渡した。食事前の祈りを簡素に済ませ、私たちは早速口をつける。
「……美味しい!」
食べると中はまだほのかに暖かい。作り立てを詰めて、すぐに私を誘いにきてくれたのだ。カリカリのバゲットは硬くて噛みごたえがあって、挟まれた具は柔らかくて濃いめの味で美味しくて。冷えたサラダはちょうど良い薄味だ。
「幸せ……」
私はしみじみ味わいながら咀嚼した。
「姉さんのキッチンメイド、相変わらずこういうの美味いなあ」
言いながらリチャードは大きな口であっという間に平らげる。皇弟殿下らしからぬ豪快なその食べっぷりに、思わず笑ってしまう。
「リチャード、ついてるわよ」
やんちゃな食べ方で頬を汚したソースを、私は指を伸ばして拭う
指を舐めれば、やっぱり甘酸っぱくて美味しい。
「バゲットサンドのドレッシングの隠し味、何かしら? ちょっと酸味があって美味いわよね……」
「……」
一人でつぶやく私を、リチャードは珍しく呆けた顔をして見つめている。
「リチャード?」
「モニカさんのそういうとこ、ほんと迂闊だよね」
「え」
片目を眇めて苦笑いするリチャードを見て、私は数秒考えてハッとした。
「ご、ごめん! なんだか変なことしちゃったわね!?」
私は慌てた。まるで小さな子供にするみたいなことを、よりによってリチャードに!
リチャードは慌てる私を見て、肩を揺らして笑う。
「ううん、僕はいいけど……でも他のやつにしちゃダメだよ」
「リ、リチャード以外にしないわよ、こんなこと」
「へえ? それは光栄だ」
恥ずかしくて熱くなる頬に、涼しい風がそよいで冷やしてくれる。ウィンプルがたなびくのを手で抑えながら、私は揺れる菜の花の海を遠く見つめた。
「……楽しいわ、リチャード。連れ出してくれてありがとう」
「それはよかった」
隣を見れば、リチャードが目を細めて私を見つめていた。
「いつも心配かけてごめんなさい。つい、張り切りすぎちゃって」
二人っきりの気安さで、私は弱音を漏らす。
「私の働きを期待して連れてきてくれたんだから、ちゃんと成果ださなきゃって焦っちゃって。心配かけたら意味なかったわ」
「モニカさん」
気がつけば近くでリチャードが顔を見ていた。
「少し黙って。……じっとしてて」
「……ッ……」
真面目な顔で髪に手を伸ばされ、私は言葉が出なくなる。リチャードは壊れ物を扱うように私の髪に触れると、指先に摘んだものを見せてくれた。
丸くて真っ赤で、羽に点がぽちぽちとついた可愛い虫。
「……てんとう虫」
「ついてたんだ。可愛いよね」
にっこり。リチャードは無邪気に赤いてんとう虫を手のひらで遊ばせる。しばらくあちこちを動き回っていたてんとう虫は、リチャードの人差し指に登り、そっと菜の花畑の方へと飛んでいった。
菜の花畑の黄色に、赤い点が吸い込まれていく。
「……居場所を確固とするためとはいえ、モニカさんに無理をさせている自覚はあるんだ」
てんとう虫の行方に目を向けながら、リチャードは優しく言葉を紡いだ。
「だから、僕がモニカさんの心配をするのは当然のこと。謝る必要なんてないんだよ」
「でも……」
「大丈夫。聖女を引退する時は楽しみにしてて。責任とってちゃーんと幸せにするから」
「ちゃーんと、幸せにって……」
「そう。幸せにするよ、モニカさん♡」
幸せにするって。彼は一体私に何をしてくれるつもりなんだろう。
彼が言っているのは生活に困らない恩賞の話なのだろうけど、言葉選びのせいで色々と変なことを考えてしまう。
「誤解されるわよ、その言葉選び……」
「誤解って?」
リチャードは不敵な笑みをこちらに向ける。焔色の瞳が春の陽気に鮮やかに映える。あ、私の反応を面白がってる時の顔だ。
「僕と結婚したくなっちゃった?」
「けっ…………結婚!?」
素っ頓狂なことを大真面目に言い出すリチャードに、私は声が裏返る。
「冗談にしても言い過ぎでしょ。誰が聞いてるかわからないし、貴方の結婚相手ひとつで内乱の一つや二つおきちゃうわよ」
「あはは、そんな大声で言っちゃうとみんなに聞こえちゃうよ」
「……ッ!!」
「ははは。面白いねモニカさんは」
思わず口を押さえる私に、リチャードは大口をあけて笑う。
「大丈夫。時期が来たらちゃんとプロポーズするからね」
「だ、だからそういう冗談はやめてってば……ッ!!!」
恥ずかしさと身分に不相応な冗談に赤くなったり青ざめたりしながら、私はリチャードに叫ぶ。
そんな私たちの側を。番の白い蝶がひらひらと通り過ぎていく。
つかの間の余暇の時間を、私たちはたっぷり笑って過ごした。
「……冗談に聞こえるのは今のうちだけだよ、モニカさん」







