欠陥
ページを繰ったら、もう続きはなかった。思わずほうっとため息をついて本を閉じる。じんわりとした満足感とともに顔を上げた途端、現実が目に飛び込んできた。
奥のホームに停車する電車。スマホを触りながら歩くサラリーマン。そして、楽しそうにしゃべりながら駆ける高校生カップル。
……そうだ、私は今、家に帰るところだったんだ。
飲み会からの帰りの電車で読み始めた本の世界にどうしようもなく引き込まれ、その電車を降りてからも離れがたくなり、ホームのベンチで最後まで読み切った。田舎町で生きる、恋愛できない男の話だった。主人公の人間関係に一緒に悩み、世間の偏見にさらされる彼を傍らで密かに応援し続け、彼が自分らしく生き抜くと決意した時そっと自分も微笑んだ。
なのに現実はこれだ。恋愛感情のない人なんてまるで存在しないかのような世界。9割以上の人が、みんな誰かに恋をすると信じきっている。誰とも付き合ってない人をどこか欠けているかのように扱い、「よかれと思って」相手をあてがい補おうとする。
主人公を取り巻く環境もそこまで違いはない。それでも彼は恋愛できない自分を肯定し、愛することができた。それなのに、自分ときたらどうだ?
――え、誰とも付き合わないの?
飲み会の席で同期から投げかけられた純粋な驚きの声が頭に響く。きっとその同期にも悪気はなかったのだろう。彼の中にそんな生き方がなかったというだけで。それなのに、私はその台詞に勝手に傷つき、打ちのめされた。
誰も好きにならない、恋愛感情を持って付き合わない。それがそんなにおかしいことなんだろうか。誰にだって、多くの人は持っているけど自分にはない、そんな部分もあるはずだ。私は、それが恋愛感情であっただけで。
それなのに、どうして私だけ周りに説き伏せられ余計なモノを持たされようとしているのだろう。
そのとき、うつろな目をしていた自分の視界の中に、突然赤いヒールが飛び込んできた。その奥には黒光りする革靴が連れ添っていた。頭の上からは女性の上品そうな笑い声が降りかかってくる。
ふと目を上げると、ヒールと同じような真っ赤な紅を唇にさした女性と整髪料で髪をかき上げたスーツの男性が、目の前を通り過ぎるところだった。彼女の長くウエーブがかった栗色の髪がふわふわと揺れ、甘い匂いをあたりに漂わせる。腕を組んで幸せそうに微笑み合う二人は、まるでスローモーションのように私の目に映った。
思わず目で追ってしまったそのとき、そんな彼女が振り向いた。
私と目が合う。
息が詰まる。
視線が合ったのはほんの一瞬のことだったのだろう。だけどその一瞬で、彼女は私を見て、笑った。
――誰もそばにいてくれないなんて、かわいそうね。
えっと思った時には彼女はもう私を見ておらず、前を向いてなおも隣の男に話しかけていた。男もまんざらでもなさそうにそれに応じる。彼女たちの世界には、もう私は存在していないようだった。
まるで目が覚めたみたいに、自分の世界に雑音が戻ってくる。周りにびくびくしたところで、こちらを気にする人などいない。そんな自分がなんだか哀れに思えてきた。ふっと乾いた笑いがもらし、背もたれに身体を預ける。
ああ、嫌だ。
自分の「当たり前」を押しつけてくる周囲も、それに傷つき卑屈になる自分も。
目が潤んできたような気がして、上を見上げぎゅっと目をつむった。
人びとのざわめきの中に、私は今日も一人きりで座っていた。