Prologue
母はそれを哀れ悲しんだ。
父はそれを嘆き悔やんだ。
妹はそれを恐怖した。
だが僕にとって『暗闇』とは親しんだ世界であり、忌み嫌うものではなかった。
7歳の誕生日に不幸な事故に見舞われ、盲目の身となった。目蓋を開いてるのに何も映らない強烈な違和感。一筋の光すら差し込まない暗澹とした世界。家族の涙声が響く。手を握られる感触。つんと鼻を刺す消毒液の匂い。唾液の乾いた嫌な味がした。いつまで経っても目は覚めない。
「一緒だ」
多分、僕は狂っているのだろう。
嘘のように涙が出なかった。
衝撃を受け困惑こそすれ、絶望しなかった。
事故に遭う前までは泣き虫だった息子の異様な呟きに、ベットの周囲で空気が凍るような気配がした。
「ズゥと一緒だ」
それは少し前の記憶。
脳裏に鮮烈に焼き付いた記憶。
生まれた時からそばに居た愛猫のズゥが寿命で死んだのを、僕は見届けた。
安らかな死などフィクションに過ぎず、お腹がヨボヨボになって、毛が荒れて、あんまり餌を食べなくなって、ある日パタリと寝たきりになって、呼びかけても反応が小さくなって、呼吸が不規則になって、苦しげに起き上がっては倒れて、失禁して、すごい力で爪を立てて、口を開けて必死に酸素を求めて、最後は骨が折れるくらい背をのけ反らせて、息が止まっても数回痙攣して――
目から光が失われていくその死に様を、自分に重ねたのだ。
※※※
「気分は悪くない? 水分とった? お腹空いてない? 具合が悪くなったらすぐに辞めるのよ?」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ母さん」
「ちゃんとトイレは済ませたか科戸、大きい方もだぞ」
「頑張って踏ん張ったよ父さん」
「お兄、心の準備はOK?」
「一思いにやってくれ!」
心配性の母さんはどこかハラハラした様子で。
落ち着きのある父さんは貫禄のある声音で。
妹の花鈴が逸る気持ちを抑えるように。
「んぐっ」
ずぼり!! とヘッドギアを装着される。
よ、容赦ないな…結構な力がこもってたぞ首痛い。ずっしりとくる重力に逆らわず、ベットに横たわった僕は新世界への扉を開く。
「トリガーオン」
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。
それら五感すべてをVR空間にリンクさせる次世代技術の結晶。
時代の節目は唐突に。
夢物語で終わるはずの空想は現実に。
この日、ついにフルダイブ機能を搭載したVRMMOが発売されたのである。
※※※
「わ」
パッと光が灯った。透き通るような青の電脳世界だ。すごい。光。青。色である。光もそうだが色を認識したのは本当に久しぶりだ。盲目な僕とはいえ人間なので夢を見る。小さい頃は色彩豊かだった夢の世界も、年を経るごとに色褪せ、ここ数年はセピアに塗り潰されていた。
ああ、すごい。本当にすごい。感動だ。涙がちょちょぎれそうだ。ここがゲームの中だなんて未だに信じられない。夢特有の認識が阻害されてる感じはしないが、まだ現実味は薄いかな。でも機械質な光景ですらこれなのだ、この後踏み出す広大な世界への期待がますます高まっていく。
きゅるきゅるぽんっ。
何もない空間に靄が渦巻いて、宙に浮かぶ摩訶不思議な少女が現れる。
「ぽえぽえ~! アナザーワールドへようこそぽえ!」
僕の記憶に残る級友達と同じくらいの体躯。
天使と悪魔を足して割ったような服と小ぶりな羽根に天輪。ふよふよと漂う金髪は星のようなエフェクトがキラキラしてる。
「な、何だこの可愛い生物は……!」
「みんな大好き、アナザーワールド公式キャラクターのキララちゃんぽえ~!」
なるほど彼女が軍用のAIが使われていると噂の公式キャラクターか。花鈴が聞かせてくれたPVで耳にした幼く、溌剌で、眩しい、そんな声音から受ける印象通りの造形をしていると言えるだろう。現実離れした容姿に特徴的な語尾も含めて、素直に愛らしいと思った。
「僕知ってるぞ! 君みたいな娘をロリっ子って言うんだ! あ、ちなみに何歳? それによってはロリババアって呼んだ方がいいよね?」
「なんだこいつ! いきなり失礼しちゃうぽえ!」
「怒った……しゅごい、しゅごいや……」
「もういいぽえ! 早速キャラメイクだぽえ!」
惚ける僕に構わずパチン、と指をならすキララ。
すると僕の眼前にウィンドウが、右隣に全身鏡が現れる。
鏡に写っているのは中肉中背のパッとしない男キャラ。なるほどこういうのをmob顔と言うのだろう。この原型を弄って個性を出す、MMORPGではお約束のキャラメイク。先発組の花鈴は二時間かけたのだとか。
「容姿は後から変えられないぽえ! 大いに悩んで決めるポエよ~!」
身長、体型、輪郭、顔のパーツ、細かいところだと毛深さや手足の大きさなんかも弄れるらしい。事前情報の通り、アナザーワールドはメイキングの自由度がとんでもなく高いな。花鈴が絶賛するだけの事はある。今まで聞いて触れることしかできなかったゲームだ。それはそれは心惹かれるのだが……
「現実の姿を反映できる?」
「トレースぽえな。できるけどいいぽえ? 個人情報丸出しになるぽえよ?」
言われて少し考える。
いわゆるリアルバレ。でもどうだろう、僕の知り合いなんて家族と病院の先生くらいだ。盲目になって学校は辞めたからかつての級友の顔は朧げだし、逆もまた然りだろう。特に仲が良かった幼馴染とも疎遠になって久しい。それにゲームを自分でプレイするのも初めてだからメイキングとかよくわかんないし……何より。
「『もう1人の自分』じゃなくて『|本物〈リアル〉の自分』で楽しみたいんだ」
「了解ぽえ~!」
ヴン、と音がして僕の肉体が作り替えられた。
鏡に写るのは――僕、なのだろうか。
なにぶん自分の姿を見るのも十年ぶりな訳で、他人のような距離感が拭えないがこればっかりはしょうがない。
7歳の頃に比べて随分と身長が伸びた。少し癖のある黒髪は男にしては長めだろうか。眠たげにも見える切れ長の瞳にはちゃんとハイライト。体格は自分でいうのもあれだけど華奢だな、中性的な顔といい母の血を濃く継いでいる。そういえば小さい頃から事あるごとに母親似だって言われてたっけ。
「まさか自分の成長した姿を、こんな形で見れる日が来るなんて……ゲームしゅごい……VRしゅごい……」
「お次はステータスの設定だぽえ!」
またまた惚ける僕をよそに、キララの操作でウィンドウが切り替わる。
ステータスかー。容姿を反映させたのだ、プレイヤーネームで悩む必要もないよなー。
「初期ステータスと初期スキルはどの職業を選んでも同じぽえ! 差が出るのは今後獲得できるスキル傾向とステータスの成長補正、それから武器の使用補正とかぽえな!」
これも王道、職業選択である。
数回スクロールしないと一番下に着かないレベルで種類があって目眩がする。
冒険者、騎士、神官、魔法使い、戦士、その他諸々。これらは大枠であってさらに掘り下げてある。分かり易いので例をあげれば、魔法使いでも『火の魔法使い』『水の魔法使い』と言った感じで属性ごとに種類がある。
「うわあ……難しい文字がいっぱいだ」
ちなみにこう見えて僕、簡単な漢字とアルファベットは読める。平仮名と片仮名は言わずもがな。目が見えないなりに勉強方法はあって、文字は書けば軌跡を脳内に思い描けるので楽に覚えられるのだ。肉眼で初めて認識する文字も、かねがね問題無く理解できるようで安心した。
「職業は神殿でいつでも変更可能ぽえ! 派生先の系統樹はキララちゃんでも把握できなくらい膨大ぽえ! 特別な条件を達成しないと就けない職業なんかもあるぽえ! 夢が膨らむぽえな~!」
思案顔の僕にアドバイスが飛んでくる。
職業は容姿やプレイヤーネームと違い変更できるが、ころころ変えると器用貧乏になるみたいだ。ソースは妹。一つの職業を突き詰める、もしくは似た系統に絞った方が強力なスキルを得られやすいのだとか。
「うーん、悩むけどこれにするよ」
「ぽえ~『軽戦士』ポエか! その心は?」
「この目に映る世界を、全力で駆け回りたい」
軽戦士はステータスの成長に俊敏の補正が入る。初期スキルも単純で使い勝手が良さそうだ。足が早くなる。うん、すごく単純だ。小学生でもわかる。
よし決定。特に思い入れとかないけど、とりあえずはこれで行こうかな。
「チュートリアルは必要ぽえか?」
「花鈴が……妹が先発組だからね。この後、色々と教えてもらう予定なんだ。だからいらないね」
「それじゃあいってらっしゃいぽえ~!」
「ああちょっと待ってなんか緊張してきた心の準備がまだ――」
※※※
半ば強制的に転送されていった黒髪の少年。
キララは外向けのニコニコ顔を一転させ、難しい顔で開いたウィンドウを覗き込む。
「むむむ……プレイヤーネーム:シナト――とんでもない適正値だぽえ」
フルダイブシステムを搭載したVRには適性がある。要するに『自分が思った通りに体を動かせるか否か』であるが、適性が高い者は違和感にすぐ慣れるだろうし、逆に適性が低い者は思うように体が動かなくて苦労するだろう。だがこの少年の適性値だと現実とのズレがない、些細な違和感すら感じないを通り越して、過剰反応すら引き起こしてしまうかもしれない。
先発組や少年より先にアカウント登録をした後発組ユーザーの適性値、その平均は62である。対して黒髪の少年の適正値は約十倍――635であった。最大値も大幅更新である。
しばらくウィンドウと睨めっこをしてキララは唸る。
「絶対バグってるぽえ」
上司に報告メールを飛ばした。