2話 隣人が僕の部屋に来た
「え?」
彼女は先ほどよりも数倍驚いていた。
それはもう、僕が彼女の家のドアを勝手に開けて入って来た時よりも驚いていた。
「なん、で? こんな美人のお姉さんと同居できるのよ? 嬉しくはないの?」
「全く嬉しくないですね」
たしかに彼女は美人だったし、僕のことだけを考えたのならそれは嬉しい話だった。
いやもう彼女がいいというのなら好きなだけイチャイチャする。僕だってまだ大学生で、そういったことに興味がないはずはない。
だけど、それは難しい話だろう。彼女は口ではいいとか言うのかもしれないけど、誰だって僕のようなもやしっ子とはそういうことはしたくない。
僕が女の子だったら、僕のような奴はさっさとだましてむしれるだけ金をむしって捨てる。
あ、でも僕は貧乏でお金もないからやっぱり関わらないの一択か。
つまりは、僕は彼女に触れることもできずただ毎日悶々とするだけになるのだ。
ひたすらに性欲だけ溜まっていき、だが彼女が家にいるから簡単に発散することもできない。
そんな環境は――はっきり言おう。地獄だ。
「やっぱり全く嬉しくないですね」
多分彼女には、僕が安心安全の男でそういった恋愛に全く興味がない人間に見えているだろう。
それならば確かに、お金に釣られて簡単に了承しそうなものだ。
だがその姿は僕が長い長い学生生活の中で身に着けた外装であって、中身はそんなことはない。
ただ女性の色香に弱い純粋な小動物なのだ。自分で言うのもなんだけど。
「だからお断りさせてください。あと、お金は銀行に預けておいた方が安心だと思いますよ。このマンションはそこまでセキュリティがよくありませんから」
札束を下ろしてもらう。女性には興味があるが、お金には興味がない。
そんなある意味いびつで、ある意味純粋な生き物が僕という存在なのだ。
さて、このような面倒くさい人間は彼女の目にどう映ったか。
「はは、ふふっ、ほほう」
どうやらは行しか言えない状態異常に陥ってしまったらしい。
僕ももしかしたら黒魔導士になれるかもしれない。
「じゃあ、失礼しますね」
そう告げて今度こそ彼女の部屋を出ていく。
これで彼女と関わることもないだろう。意外と楽しい時間だった。
ほんの少しばかり名残惜しさを感じつつも部屋を出ていこうとした。
その時だった。
「待ちなさい」
怒気に包まれた声。底冷えするような声。
そんな声で呼び止められた。
振り返ってみると怒髪天を衝く勢いでグラグラと揺れており、それでいて顔だけにこりと笑っていためちゃくちゃに怖い女性がそこに立っていた。
それは本当に恐ろしく、小学生の時に怒鳴り散らしていたスキンヘッドの長身の教師よりも怖かった。
「私の部屋に勝手に入ったのだから、今度は君の部屋に、ね?」
だから、さすがにその言葉に拒否をすることはできなかった。
*
「文字通りの殺風景ね」
「文字通りの貧乏なもので」
知らない女性を家に上げるという実績を解除したが特に感慨深いものもない。
たぶんどこか現実味が無くて実感が湧かないからだろう。
「ベッドすらなく、パソコン一つだけ、ね」
「あの、同居するみたいな前提で分析するのはやめてください。同居はしませんから」
ちなみにベッドすら買えなかったのは、このパソコンに全てを投資したからである。
パソコンが無いと大学生は何もできないということを去年学んでいる。
「大学はどこの?」
「ひとつとなりの駅のところです」
「ああ、じゃあ結構いいとこ行ってるのね」
「一応そうですね」
果たして大学の名に恥じない生活を送れているのか。
別に大学の名を背負いたいわけではないのだが。
「1年生?」
「2年生です。去年までは実家でした」
「ふうん」
そう言って6畳ほどの部屋を見回す彼女。
といっても本当に何もなくてパソコンしかない景色は彼女の目には退屈に映ったらだろう、すぐに飽きて何もないフローリングに足を畳んで座った。
「あの、ちょっとなんで居座ろうとしてるんですか」
「え? 私の隣の部屋だから?」
思わず頭を抱えたくなった。
あまりの論理の飛躍に振り回されることに徒労感を感じたのだった。
彼女は床にほこりがないことを確認して、うんうんとうなずく。
「ここに何か置いたりしないの?」
「たぶん置かないですね。まあ布団くらいは買うかもしれないですが、他は買うお金がないですから」
「ふうん」
どうでもいいが彼女は「ふうん」と言うのが癖らしい。
知ったところでどうするんだって話だけど。
「なんか良いよねえ、新居って感じで」
「まあ築20年ってそんなに古くないですからね」
「どうにでもアレンジできそうな感じがして」
「画鋲とか刺すと怒られるらしいですけどね」
必死にピントが合わないように逸らし続けると、彼女はキッと睨んできた。
いや、睨まれる原因がわからんです。
彼女から逃げるようにベランダの方へ移ると、もう既に日が暮れてしまっていた。
初めて見る新居の夕焼けに少し感傷に浸っていると、彼女が気付かぬ間に背後に立っていた。
「ねえ」
「ひぇ⁉」
耳元でうっとりとした耳に残るような囁きをされ、背筋に電気が走る。
慌てて後ろを振り向くとそこには勝ったような顔をしている彼女がいた。
なんだかそれが悔しくてすぐに何事もなかったかのように表情を整えて、誤魔化す。
「なに? 耳が弱点なの?」
「違います、いつの間にか後ろに立たれていたことに驚いただけです」
「そうか、耳が弱点なのか~」
なにやら彼女のペースに飲まれている。
彼女はからからと笑って、にひひと笑顔を作る。その仕草は大人っぽくてどこか蠱惑的だ。
「そろそろ帰ってもらえます? もう時間も遅くなってきたので」
「ふふっ。何その小学生みたいな感覚。まだ6時でしょ?」
「女性を気遣っての感覚なんです。18時に男と二人きりになるのは良くないと思いますが?」
ちょっとバカにされたので力んだように言い返すと、さらに彼女は喜んで笑う。
「なんです?」
「いやあ、別にぃ」
だが、言葉とは別に彼女はひざについたほこりを払って、玄関口へと向かった。
「意外と素直なんですね」
「なに、名残惜しくなっちゃった?」
「いえ別に」
さっさと帰ってほしい。頼むから僕の平穏な日常を返してほしい。
だが意外にも、彼女は僕の言葉に嘘が無いと見えたのかつまらなさそうにサンダルを履く。
どうやら闖入者を追い出すことには成功したらしい。
「じゃあ自殺しないように気を付けてくださいね」
別れ際の定型文からはいささかずれた部分があるのはご愛嬌ということで、いきなり入居日に隣人が自殺というショッキングなことが起こることもなく平和な一日が終わりを迎えた。
「じゃあまた明日ね」
……とりあえず今日が何事もなく終わっただけでも良しとしよう。




