1. お山で暮らす詠み人は、
さくり。
足の下に伝わる感触に、自然と笑みがこぼれ、シキミは思わず足を速めてみる。
さくさくさく。
辺りには朝らしい清浄な空気が漂い、目の前に伸びるのは木々に囲まれた苔むした緑色の道。
朝露に濡れた草花が触れて、シキミの水色の上衣の袂が湿り気を帯びるが、不快とは思わない。
「やっぱり、朝だなあ…………」
シキミは、午前中のこの清涼な気配の中を歩くのが好きだった。
詠み人としてシキミが扱う力は植物と相性が良いので、生命力にあふれたお山を感じられると気持ちがいい。
あまりひとりで出歩くと心配性の鳥があれこれ言ってくるので、その鳥が朝のお勤めに出かけているこの時間は、ちょうどよくもある。
水を豊かに蓄えたお山は、夜露の名残を漂わせてしっとりと落ち着いていながら、一日の始まりに向けてきらきらと活動を始めている。
重なり合った枝葉のざわめきは、音に敏感なシキミの耳を楽しませてくれた。
しばらく歩いて満足したシキミが、そろそろ戻ろうかと考えていた時。
「…………もののけ?」
他に人などいないはずのこのお山で、か細い声がした。
驚いて振り返ると、そこにはシキミより少し年下らしき青年が、目を見張ってシキミを見ていた。ちょっとそこまでといった軽装の身なりからすると、ふもとの村の住人だろうか。
青年はこちらの存在に驚いているようだが、シキミにとっても青年に会うのは予想外だ。このお山に人間は踏み入らないはずだった。
「うーん、もののけではないかな」
「…………喋った」
「まあ、喋るけど」
「ひっ、…………やっぱり、もののけなのか、…………」
青年は、お山で出会った存在が恐ろしくてたまらないらしく、いちいち驚く。おかげで話が通じていない。
その様子に少し面倒くさくなったシキミは、つかつかと青年に近づいてぐっとその手を握った。
「はい、こうしてあなたに触れることができます。生き物の温もりもあります。人間ですよ」
「っ!!………………人間、」
びくりとした青年に手を振り払われそうになったが、ぎゅっと力を込めて離さなかった。
そのまましばらく青年の目を見つめていると、少しは落ち着いたのか、強張っていた顔が少し緩んだ。
「分かりました?私は人間。あなたを害するものではありません」
「あ、ああ…………。すまない」
そうして青年の目から怯えの色が薄らいだのを確認して、シキミは掴んでいた手を解放する。
「それで?あなたは、どうしてこんなところに?ここは南山だよ」
「その、薬草を採っていたら、霧が出てきて。迷ってしまったみたいで……」
シキミは青年の言葉を注意深く聞いていた。正確には、その音の響きを。
それから、青年が背負っている、薬草が入っているらしい籠を見る。
「なるほど。あなたの言葉に悪意はないみたい」
「え?」
「悪意のある言葉は、なんとなく分かるの」
「もしかしてあなたは、よみびと……なのか?」
詠み人は、音に含まれる感情に敏感だ。だから青年はそう聞いてきたのだろう。
だが、シキミは肯定も否定もせず、ただ曖昧に笑顔を浮かべた。
詠み人の数はそれほど多くはないし、その技術も師匠からの口伝のみで伝えられるものなので、一般にはよく知られていない力だ。そのせいで、妙に崇められたり、逆に怪しまれたりすることがある。
だからシキミは、自分からは詠み人だと名乗ったりはしなかった。
「……そういえば、薄い黄色の髪に薄青の瞳、…………村で聞いていたとおりだ。ということは、お山の化け物に連れ去られたっていう、詠み人さんなのか?」
「ん?」
青年によれば、以前に村を助けてくれた詠み人が、お山の化け物に攫われてしまって行方不明になっているらしい。
(そういえば、旅の途中でこの山のふもとの村を通りかかったことがあったような……)
シキミが鳥を捕まえる前にふもとの村で少し手助けをしたことで、変にありがたがられ、妙な話になってしまったのかもしれない。
お山で暮らすようになってからは人間と接触することがなかったので、まったく知らなかった。
本当のところは、シキミの大事な鳥の飼育環境に適した場所に、引きこもっただけなのだが。
しかし、そんな事情を知らない青年はシキミの腕を取り、親切にも一緒に山を下りようと言ってくれる。もう青年の中では、シキミは化け物に攫われたかわいそうな詠み人ということになっているらしい。
「かわいそうに、怖かっただろう?俺と一緒にこのまま山を下りよう。村まで行けば、みんな助けてくれるよ。俺はそのときは外に出ていたから詳しくは知らないのだけど、村を助けてくれた詠み人さんなら、このまま見捨ててはおけない」
「いやいや、気持ちはありがたいけど、私はここでの生活を楽しんでいるから」
「だけど化け物に無理やり攫われたのだろう?その化け物は、お山の生き物たちを排除するのに躊躇はないと聞く。その力は強大で、とても人間の敵うものではないと。逃げたくとも逃げられなかったのだろう?」
「いや、たしかにすごく強いし、あっさり排除する場合もあるけれど。それは単にお山の手入れで、迷惑な生き物がいただけだよ。そして私は無理やり攫われてはいないの。……とにかく、あなたは見つかる前に早く山を下りた方がいいね。途中まで案内するから」
「君を置いては、」
ばさり。
再び話の通じなくなった青年の言葉が終わる前に、シキミと青年の間を遮るように大きな影が降り立った。
それは、青年よりももう少し大きいくらいの鳥だった。
全身は真っ白の羽毛に覆われており、着込んだ白装束の間からも至極のふかふかであることが分かる。
鳥らしいつぶらな目に立派なくちばしは、まさしく鳥の愛くるしさにあふれていて、背に負った立派な黒い羽は、朝の光を受けて艶やかに煌めいている。
さらに、手には人間のように器用に動く五本の指があり、鉤爪の付いた二本の足はしっかりと地面を踏んで揺らぎもしない。
羽毛も羽もくちばしも、どれをとってもきれいな、シキミの大事な鳥だった。
そこで、青年が掴んでいる腕をじっと見つめられ、シキミはそっと自分の腕を抜いた。この鳥は、シキミが他の生き物に触れるのを嫌がるのだ。
この鳥がやって来る前に、なんとか青年を帰してやりたかったが、見つかってしまったものは仕方ない。
その青年はというと、突然やって来た大きな鳥に硬直してしまったようで、ぴくりとも動かない。
「カナメ」
青年を無暗に威嚇しないよう、ひとまず名前を呼んでこちらに注意を向けさせる。
カナメはこのお山の管理者で、ここへ人間が踏み入るのを許していない。放っておけば、簡単に青年を消してしまうだろう。
カナメはシキミにとっては可愛い鳥でも、管理者として邪魔者を排除するのに躊躇いはない。仕事時のカナメは、触れれば切れそうなほどの鋭い気配をまとって圧倒的な力を振るう。
人間側から見れば、表情などない鳥顔で強大な力を容易く扱っていれば、それは恐ろしいだろう。青年の言う化け物という側面も、確かにあるのだ。
「シキミ、お前はここで何をしている?」
「朝の空気を楽しもうと」
「そもそも、ひとりで出歩くな」
「ちょっとこの辺を散歩するだけだよ」
「それでもだ」
カナメは何かを確認するように、手の甲でシキミの頬を撫でた。その手の感触は、人間のものと変わらない。
それで何を納得したのか分からないが、今度は青年の方を向いて声をかける。
「おい」
「………………」
「カナメ、この人はふもとの村の人だよ。薬草を採りに来て、霧に迷わされたみたい」
青年が固まって答えられそうになかったので、代わりにシキミが答える。
しばらく青年を見た後、カナメはふんと鼻を鳴らした。
「ふもとの人間か……。では今回は見逃してやる。さっさと山を下りろ」
反論を許さないような口調で告げた二足歩行の鳥に、青年は何も言えずに震えるばかりだった。
「あ、私が送ってあげるよ」
「おい、なんでお前が送るんだ?」
「この人はたぶん、私が以前に手助けした村の人。ここで出会ったのが何かの縁だと思うからだよ」
詠み人は、こういった縁を大事にするものだ。この青年に意味があるのではなく、ここで出会ったということに意味があると考える。
そのことを知っているカナメは、少しの間逡巡した。
「…………、狐を呼んでおいてやる」
「だめだよ、狐ちゃんは途中で飽きたりするでしょう。山を下りるまで見届けないと、心配で任せられない」
「じゃあ、蛇ならいいだろ」
「蛇ちゃんはもっとだめ。この人が怖がりそうだから」
当初、青年は人間の姿をしたシキミでさえ怖がって会話できなかったのだ。そして今も固まっている。
ここまでに蓄積された恐怖経験値から考えると、カナメが呼ぶ大きな白蛇には耐えられないだろう。
「………………くそ、俺が連れて行けばいいんだろうが。お前はさっさとうちに帰れ」
「あ、……そうか、カナメが送ってくれた方が早いよね。ありがとう」
カナメであれば飛んで行けるので、シキミが行くよりもずっと早い。
だが、カナメがそこまでしてくれるとは思わなかったので、あえて考えていなかった手段だ。
カナメにとっては、この青年は管轄の村の住人ではあるが、死んでも問題ない人間でしかない。理由がなければ自分で手にかけようとはしないだろうが、わざわざ助けてやる義理もないのだ。
それでもこうして提案してくれるのは、シキミがそう望んだからに他ならない。
「…………はあ、お前には蛇をつけてやる。絶対にそいつから離れるな。何かあったらすぐ俺を呼べ。いいな?」
「うん。ありがとう、カナメ。ちゃんとうちで大人しくカナメを待っているよ」
「…………っ、やめろ!」
シキミの頭に手を置いて、ため息を吐きつつもけっきょくはご主人様の意を汲んで折れてくれたカナメに、いい子だね、と首筋のもこもこした羽毛を撫でてやった。すると照れ屋な鳥は、怒ったようにシキミの手から逃げ出した。
鳥顔なので表情は変わらないが、カナメの発する言葉の音には、不快な感情は含まれていない。
言っても本人は認めないだろうが、照れているだけなのだ。
こういうところも、この鳥の可愛いところだ。




