夢七夜
夏目漱石の夢十夜に憧れて昔書きました。
―七月三十日、本日の夕暮れは空に赤、橙、黄、黄緑、水色、青、紫の七色が揃い、湿度が非常に高くなるため夜には金平糖の雨が降るでしょう。
朝の天気予報を聞いたときから、金平糖を集めようと決めた。金平糖の雨が降るのは非常にまれなのだ。それでなるべく沢山集めるにはどうしようかと朝からずっと考えていたせいで、私は三回ほど転びかけ、六回ほど転んだ。その度に兄のモクレンに笑われ、その度に私はぷいとそっぽを向いた。
家の外に出ると、小さな子達が空を見上げながら歩いていた。早く金平糖が落ちてこないかと待っているのだ。その姿は昔の私の姿と重なった。スイレンとモクレンと三人で並んで、まだかまだかと空の青いうちから待っていたのだ。そのことを思い出し空を見上げた。けれど空はまだ真っ青で、夕暮れを知らせる赤はどこにも無い。そういえば、金平糖を待ちわびて空を見上げることが子どもっぽく思われ、恥かしいと感じるようになったのはいつだったろうか。今は、恥かしいなんて思ってないのよ、と澄ました顔で見ることが出来るようになった。
「スズラン、籠買いに行くのか?」
振返ると、モクレンが玄関の隙間から顔を覗かせていた。
「ええ」
「瓶は?」
「それは前に買ったので大丈夫でしょう」
金平糖を集めるには植物の蔓、中でも朝顔の蔓で編まれた籠が最も良いと言われている。そして集めた金平糖を薄硝子の瓶に入れるのだ。僅かに朝露を纏ったそれは、薄硝子の中で七色の色をより鮮やかにする。
「けど、プレゼントにするなら前のはどうかと思うけど」
「ああ、では瓶も買わなくては」
空がくれるものは何だって私たちの思い出になっている。中でも、金平糖の雨はスイレンが最も好いていたものだ。それを渡したら、きっと彼女は喜んでくれるだろう。
―七月三十一日、本日はとても暑くなりますので、熱中症には十分注意してください。
夜顔の花は咲かず、青っぽい甘い香りを辺りに漂わせていた。その細い蔓にいくつもの蕾をつけながら、そ知らぬ顔をして添え木に巻きついている。この夜顔は昨日、スズランが籠と瓶を買う時に貰ってきたものだ。なんでも、蕾をつけて一週間近く経つのに一向に花を咲かせないので、お店の人が不思議がっていたらしい。そんなものを兄に渡すスズランの気が知れないが、取り敢えず貰っておいた。
蕾は、夕日が沈むときの、橙と白の境目のような優しい色をしている。そして一つだけ、金魚の鱗のように赤いものがあった。蕾は、ずっと見ていても飽きることは無い。ぴんとした葉が階段のように螺旋を描き、添え木に巻きついている。葉を光に透かしてみると、葉脈がすけた。そして何やら光るものが見えた。蜘蛛の糸だ。葉の陰に隠れるようにして、夜顔全体に張り巡らされている。よく探すと、ほんの小さな蜘蛛を見つけることが出来た。それはまるで編み物をするように、小さな体から糸を吐き出している。やがて巣が完成したのか動かなくなった。糸をそっとなぞると、巣全体が震えた。糸を一本切ってみた。蜘蛛は動かない。もう一本、動かない。もう一本、動かない。もう一本…。そんなことを繰り返していくうちに、巣はぼろぼろになってしまった。残りも取ってしまおうと手でそっと引っ張った。小さな蜘蛛は手の中で糸を垂らしている。夜顔に張り巡らされていた糸はなくなった。すると、蕾はゆっくり開きはじめた。緑が主だった夜顔に白、そして一つだけ赤が加わる。しかし、蕾は膨らみぽんと弾けると次の瞬間萎んでしまった。そして、みるみるうちに蔓も葉も緑を失い、種も残さずに枯れてしまった。
夜顔は蜘蛛がいては花を咲かせられなかったが、蜘蛛がいなければ生きられなかったのか。
気付くと見慣れた天井が目に入った。夢をみていた。小さな蜘蛛の出てくる夢。金平糖集めを手伝うのに疲れ、寝てしまったらしい。空は朝焼けか夕焼けか分からないものに覆われていた。さて、今は朝なのか夕なのか。スズランが貰ってきた夜顔を見ると、白い花がいくつも咲き、一つだけある赤い花の陰に隠れるようにして、夜顔の蔓に小さな蜘蛛が糸を張っていた。
―八月一日、本日も非常に暑くなりますが、夜は比較的涼しくなるでしょう。また、星月夜となるため夕涼みの際には空を見上げるのもよいでしょう。
『新発売、お星様キャンディ。忘れたいことがあったらこれをお舐め。そしたら忘れたいことはすっと空に上っていくだろうから』
このキャンディが発売されてから、星月夜の割合が多くなっているように感じられるのは私だけだろうか。以前は月が光を滴らせていたのに、今では星が落ちてくる数のほうが多くなった気がする。キャンディは星の形をしていて、薄荷味、透明な中に光の粒が混ぜ込んである。金平糖の雨とは全く別物なのに、どこかそれを連想させるこのキャンディを私は好んだ。先日降った金平糖の雨、スズランとモクレンが集めているのが見えた。その様子がなんだか懐かしかった。私も昔は降るたびに集めていたが、今は忙しいからと集めることは稀になった。そうやって、昔の事を思い出すたびに私はキャンディを舐めた。忙しいから、と言う自分が嫌で、そんな自分を忘れられるかな、と舐めるのだ。すると心の中がふわっと軽くなる。
私の忘れたものが空に上がっていき星になるなら、今日の星月夜に見る中に、私から出て行ったものがあるのかもしれない。もし見つけたら、戻ってきてくれるだろうか。
―八月二日、本日の夕暮れは薄紫の衣を重ね合わせたような、美しい濃淡が見られるでしょう。
壁を伝ったジャスミンが絶えることなく落ちてくる。空気全体にジャスミンの匂いが染み込んだようだ。見上げると、濃紺の空には月が浮かび雫を落としていた。
「早くしろよ」
「ごめん」
歩みを止めたため、ミミズクが怪訝そうな顔をして言った。真っ直ぐ続いている道には人影が無く、街灯の明かりがぽつぽつと灯っている。そこをずっと進んでいくと、小さくて深い入江に出る。僕たちはそこで真珠をとるのだ。月が流した光は海に沈むと真珠になる。それは夕暮れの色を吸い込んだ色を見せるのだ。金平糖の雨が降った日の真珠もいいが、スイレンにあげるのなら今日のような薄紫の夕暮れのものがいいだろう。
入江に着くと先客がいた。十人ほどだろうか。海から上がったその人たちの手の中に、いくつかの真珠が見えた。金平糖の日のものがまだ残っていたのか、七色に薄く光るものもあった。真珠はなるべく早く海から出さないと、色が溶けてただの白い玉になってしまう。
「ごめんミミズク、付き合わせちゃって」
「いいよ、俺もちょうど欲しかったから」
「フクロウちゃんに?」
フクロウは彼の妹だ。
「ああ、最近やたらとそういうのを欲しがる」
文句を言いつつも願いを聞き届ける彼は、きっといい兄なのだろう。
水に足を入れ、そこから一息に全身を沈める。薄く目を開けると、淡い光がゆらゆらと揺れていた。その中の十個ほどを掴むと海から上がる。手を広げ、一つ一つ見ると赤、濃紺、七色、そして薄紫が三つあった。薄紫は見る角度によってその濃淡を変える。
「七色あるなら頂戴」
ミミズクの手の中には赤しかなかった。赤が一番多いのだ。
「どうぞ」
薄紫をとると残りは海に返した。淡い光はゆらゆらと沈んでいった。
―八月三日、本日は雲ひとつ無い晴天ですが、夜遅くには雲が出てくるでしょう。
ねえミミズク聞いて、私、猫に提灯貰って踊りに出かけたの。真っ暗な山道を猫と一緒に歩いていてね、そして猫から鬼灯みたいな形した提灯をもらったの。それは私と猫しか照らさないくらいのぼんやりしたものだった。ずっと歩いていくとね、向こうのほうにも沢山の提灯の灯りが見えたの。近づくと沢山の猫たちが桜の木の下で踊ってたわ。笛や太鼓を鳴らしてる猫もいたわ。猫からもらった私の提灯も桜の幹に吸い寄せられるようにして浮かんで行ったの。私の周り暗くなったけど、猫が手を引いて行ってくれたから怖くなかったわ。そして猫が裾を引っ張って、踊ろうフクロウ、って言ったから私踊ったの。くるくるくるくる桜の周りを回って、とても楽しかった。そしたら一瞬風が強く吹いてね、提灯の灯りがいっせいに消えたの。でも私が猫から貰った提灯だけは消えていなくて、その光を見ていたらとても怖くなって逃げ出したわ。けど変なの。私すごく怖かったはずなのに、提灯持って走ってた。進むたびに中から光が零れて、どんどん小さくなってく光を見ながら家につくなり、私、布団をかぶって眠ったわ。
そしてこれがその提灯。
―八月四日、本日朝のうちは雨、午後は晴れるでしょう。
「ねえ、お話をしてもいい?」
ふかふかと笑いながら聞いてきたのはこの辺りではあまり見ない顔の子どもだった。そしてその子はこちらが返事をする前に話し始めた。それは、子どもに聞かせるような『お話』だった。
あるところに一人ぼっちの少年がいました。少年の周りには一人ぼっちのものが沢山いました。一人ぼっちのものは皆彼の周りに集まりました。けれど彼は寂しいままでした。ある日、小さな鼠が「僕は鼠の国の王様なんだ、王冠を書いてよ」、と彼に頼みました。少年は白い紙に王冠を描きました。すると鼠は「僕が欲しいのはこんなのじゃないよ」と言いました。少年は次に、葉っぱに王冠を描きました。鼠はそれを見て「僕が欲しかったのはこんな王冠なんだ、ありがとう」と言い、頭にそれを乗せると空に昇って行き、鼠の国の王様になりました。その様子を見ていた一人ぼっちのモノたちは、次々に少年に王冠を描いてくれるよう頼みました。彼は次から次ぎへ王冠を描きました。一人ぼっちのものたちは皆空に昇っていき、それぞれの国の王様になりました。少年の周りには何もいなくなってしまいました。
「その少年はどうなったと思う?」
「さあ」
その子はふかふかと笑いながら聞いた。愛想の無い反応に、思うことは無いらしい。
「王冠を描いてよ」
それどころか、ふかふかと笑いながらスケッチブックを差し出してきた。俺はそれを受け取ると、大きな丸を描いて渡した。
「ありがとう、こんな王冠が欲しかったんだ」
その子はそう言うと、王冠を頭に乗せ雲の切れ間から空に昇っていった。
一人ぼっちの少年は、一人ぼっちの国の王様になったのだろうか。
―八月五日、本日は一日中雨が続き、お出かけには向かない日となるでしょう。
カチカチ コチカチ コトコチ チクタク タクタク コチコチ
時計の音に起こされた。何か夢を見ていた気がするが忘れてしまった。廊下に出ると青っぽい甘い匂いがした。香りの元を探そうとするとふと、視界の隅に薄桃色の金平糖が目に入った。金平糖の雨の降り残しだろうか。摘まんで口に放り込むと、野苺のような香りが広がった。そしてその先にも金平糖が落ちていた。それはまるで、おとぎ話の目印のようだ。
「おはようミミズク」
フクロウは廊下の隅でぺたんと座り込みながら言った。見ると、彼女は廊下のあちこちに時計を置いているようだった。壁掛けのものもあれば腕時計、置時計、家中にある時計を並べている。それぞれの針が示している時間はてんでばらばらで、それについて尋ねると、時間変更線を引いているの、と答えた。じゃあこれは何だ?と窓の傍に落ちている黄色の欠片を指差した。それは金平糖にしては大きすぎたし、硝子にしては柔らかすぎた。
「知らないわ、朝からあったのよ。きっと星が落ちてきちゃったのね」
そういうと彼女は欠片を空に放り上げた。その拍子に、首にかかっている赤と七色の真珠が淡く光る。フクロウは放り上げた欠片の行方を見届けないで、また時計を並べ始めた。その横にスケッチブックが置いてある。中を見ると、何処かで見た王冠がいくつもいくつも描いてあった。
「猫が持ってきたの。王冠を描いてって。提灯をあげるからって」
時計を並べ終えたらしい。二十四個の時計の間はそれぞれ違っていて、三時から四時の幅が広いのはおやつの時間だからで、夜の幅が短いのは夜更かししたいからだろうか。
「そちらは明日の時間よ、ミミズク。あなた私より先に明日に行っちゃうの?」
廊下の端へ進むと、不思議そうな声で尋ねられた。明日の時間か、良い言い方だ。
「ああそうだよ。ちょっと先に行ってくるよ」
行ってらっしゃい、と見送るフクロウを背に廊下を進むと、毎朝聞く天気予報の声が聞こえた。
―八月六日、本日の天気は・・・・・・・・・・・・。