紅色めだま綺譚
佐倉治加さま主催「真冬に染みるくれなゐ」参加作
この頃やたらと目が痛む。
泪がにじみ。じくじくとした痛みが襲ってくる。それが夜通し続き眠れない。
市販の目薬に頼り。目に良い物を喰い。ブルーライトが心配で、スマホの電源は落としたままだ。しかしその、どれもこれもが空振りに終わり、俺は紹介された眼科へ行く覚悟を決めた。
病院はこどもの時から苦手であった。
特に眼科というものは恐ろしい。しかし増す痛みにやせ我慢も限界となり、雪の夜、まなこ通りへ独り向かった。
まなこ通りは、しょぼい繁華街の裏手。
ピンク映画専門館のさらに奥にある路地裏だ。地図にはやなぎ小路という真っ当な名が書かれているが、誰もその名では呼ばない。
ここは昔から眼科ばかりが軒を連ねていたらしい。だが今では眼科はめっきり数を減らし、代わりに「眼球買います」「目玉アリ〼」「生の目・め・目」などの怪しげな看板がところ狭しと掲げられている。
狭い通りにはすえたゴミと小便の匂いが漂い、雪の中、ボロをまとった奴らが軒下に立っている。
俺はニット帽子を目深にかぶり、うつむき加減で路地を歩いた。質の悪いチンピラに捕まって、目玉を売るはめになるのはイヤであった。
暗い想像を巡らせると、寒さもあいまって背筋がぞわわと震えてくる。歩が早まる。
たどり着いたそこは、とてもじゃないが病院には思えなかった。
赤く照らされている扉には、「診察中」の札がだされているばかりで、医院の名さえない。
紹介状にそえられた地図と番地を、ためつすがめつ眺めた。イヤな予感しかないが、まともな病院など選択肢になかったのだ。俺は恐るおそる扉を押した。
足を踏み入れた院内は薄暗かった。
まず目にはいったものは、待合室の長椅子に寝転ぶひとりの男だ。派手な身なりで、アイマスクをしている。患者だろうか。俺が足音をたてても、知らぬふりだ。
ガランとしている受付へ向かって、「すみません」いくら叫んでも人がでてくる気配はない。
診察室。と、剥げかかった文字のある扉の先を覗いてみたが、そこも無人だ。
なんてこった。
帰るべきか。待つべきか。俺が待合室をぐるぐると歩き回っていると、寝転んでいた男が「おい」いきなり声をあげた。
「うるせえぞ」
男の不機嫌な声に驚いたが、同時に藁にもすがる気持ちがわいた。意を決してやって来たのだ。からぶりで終えたら、いつ又決心がつくか自信がない。
もし。自分ひとりの問題であったならば、これ幸いと逃げだしていたかもしれない。踏みとどまっているのには理由がある。俺の様子を気にしている甥っ子たちの、あの目! かつては俺も、あんな目をしていたはずだ。
あの縋るような、おののいているような。複雑な色をのせた目つきに、俺は耐えられない。
「診察を受けたいのですが……先生はいないのでしょうか?」
俺は男の顔色を窺いながら、言葉を絞りだした。
「あんた、患者?」
男が上半身をおこす。
途端。男の目の上からずるりと落ちた物を見て、俺は躯を強張らせた。
アイマスクだと思っていたものは、トカゲであった。男の両目を覆うくらいの、でかさがあって気色悪い。
男が椅子から立ち上がる。
トカゲが床に腹から落ち、黒と赤のグロテスクな斑模様が俺の目を射抜く。
「紹介状ないと、ココ、診てくんないよ」
男が気怠げな声をだした。
「紹介状ならあります」
男の言葉に焦って出した封筒を、かっさらわれた。男が嗤う。
「あ……」
追った指先は虚しく空をきる。
「ふうん。ちゃんとしたヤツじゃん」
勝手になかの紙面を確認する男に怒りを覚えたが、俺は言葉を飲み込んだ。男の正体は分からぬが、少なくともここと、浅からぬ関係にあるのだろう。男を怒らせるのは得策ではない。そう判断した。
「じゃあ。センセ呼んだげる」
男はにんまりとした笑みを浮かべると、ズボンの尻ポケットからスマホを取り出した。
男の呼び出しにやって来たのは、中年の女であった。
ながい黒髪をひとつに結び、きりりとした顔立ちをしている。ジーンズというラフな格好ではあるものの、一応白衣を着ている。
「九田の家の子か……」
紹介状に目を通し、ぽつりともらした言葉から、こちらの事情に詳しいと見当をつけた。ならば話しは速い。
「目が痛む。底のほうからじくじく痛むんだ」
俺は診察椅子に座った。
彼女は俺の、わざと伸ばしている前髪をかきわけると、「この目。何年目だい?」と、訊いてきた。その言葉で俺の予想は確証へと変わった。
「七歳から、十年」
俺の言葉に「ふん」鼻を鳴らすと、両目へ強いひかりを放つ器具を向け、覗き込む。
「ああ、こりゃあ。突起ができて炎症も酷い」
どうやら患者に気を遣うタイプではなさそうだ。
「まだ保たせたい」
「本気かい?」
彼女が呆れた声をあげる。
「九田は代々診ているが……」
上まぶたを問答無用でひっくり返される。
他人の指先が近づくだけでびびってしまうが、なんとかこらえる。
「十年を超えて、皆、この目は保ち続けられなかったぞ」
知っている。俺は胸のうちで呟いた。
俺のこの目は特別製だ。九田の家に一人だけと定められ、代々引き継がれてきた。
「それでもこのままが良い」
「そりゃまた。奇特な坊ちゃんで」
背後から突然肩をだかれ、躯がはねた。
「磯部! 診察中だぞ」
俺の肩を抱いているのは、トカゲ男であった。
「邪魔をするなら出禁にするぞ」
「俺は、こいつを持って来ただけだ」
そう言って磯部はガラス瓶を差し出した。
おおぶりな瓶のなかにぎっしり入っているのは、例のトカゲだ。
「うわっ」
俺は思わず椅子から飛び上がったが、医師は顔色ひとつ変えない。
「邪魔はするな」そう言って瓶を受け取った。
「まさかソレを俺の目の玉に乗せるのか? トカゲなんかゼッタイ嫌だ!」
「これは、トカゲじゃないぞ。よく観ろ」
医師の手が蓋を開ける。
「腹が斑に紅いだろう? これはイモリだ。磯部特製の薬漬けだ。病んだ目によく効く。まあ、コレが嫌なら」
そう言って医師が取り出しのは、注射器だった。
「これをお前さんの目の玉にぶっすり刺して、溜まった膿を取り出してやる。チクリとくるが、いっぱつで楽になる」
どっちでも良いぞ。そう言ってこちらを眺める医師は、悪魔に思えた。
俺は注射を選んだ。正直言って怖い。
だがここへ何度も通い、イモリを目の上に張りつけるのは、まっぴら御免だ。それならいっそ、手っ取り早い方がマシに思えた。
麻酔成分の目薬をさすので痛みはない。そう説明されたものの死ぬ思いであった。
両手は診察台に固定され、脚は磯部に抑えられた。
注射針がぬとりと右目に突き刺さる感触に、歯を食いしばった。
視界はしっかり生きている。針を通して、真っ赤な液体が吸い上げられるのがまざまざと見えた。
「すげえ量だな」
磯部が声をあげる。
楽しげな口調に、奴を蹴っ飛ばしたくなる。
「お前、観たものを口にだしていないだろう」
医師が俺に問いただす。
「だから膿になる。九田の力は」
右目から針が抜かれる。ホッとする間もなく、針は左の眼球を突き刺さす。
「口にだしてこそ解放される。溜め込むと力は毒になって目を蝕む。下手したら腐ってしまうぞ」
「えっ! もったいねえ」
磯部が素っ頓狂な声をあげた。
俺は本気で、磯部を蹴りつけたい衝動にかられた。なにがもったいないだ。
動かせない躯のまま、俺の持って生まれた両の目で磯部を睨んだ。
「それでイキがってるわけ?」
面白そうに磯部は笑う。くそったれめ。
「俺が興味あんのは、坊ちゃんのそっちのお目目じゃないんでね。いくら睨んでも怖かないよ。なあ俺、結構顔のひろいバイヤーなんだ。だから、」
「磯部。無駄口をたたいて、患者を興奮させるな。本気で出禁にするぞ」
「へえへえ」
左からもたっぷりと吸い取った膿で、注射器は真っ赤に染まっている。
俺の躯のなかにある、吐き気がする赤だ。
皆が忌み嫌いながら。九田の家が手放そうとしなかった赤だ。
「麻酔がきれるまで、しばらく寝ていけ」
俺の額にぎょろりと蠢く異物の目玉に、ガーゼを貼る医師の手つきは存外やさしかった。
このクソ目玉は九田の家の因習だ。
一族から選ばれた子供は、額にくだんの目といわれる代物を入れられる。
くだんの目が映し出す真っ赤に染まる映像は、不吉な未来をみせてきた。予知しても変える事ができない予言は不幸をよぶだけだ。
俺はそれらを言葉にしない。俺のなかに飲み込む。今までも。これからも。
だから磯部の顔をべったりと覆う赤いしるしにも、知らぬ顔をする。ざまあみやがれ。
金を払って病院を出ると、もう深夜を回っていた。
降っていた雪は止み、見上げる夜空には赤い月が雲間にあった。
まるで獣の爪のような。うすく尖った月だった。
完
ここまで読んでいただきありがとうございました。もしよろしければ、感想等いただけると嬉しいです。
子供の時に紙で眼球に傷をつけられた事があり、先端恐怖症です。コンタクトを差し出す眼科医の指先が恐ろしく、「ムリ!」と走って逃げだした経験があります。
現在アレルギー性結膜炎があり、ドライアイ。どうしても定期的に眼科医のお世話になっています。
あのおどろおどろしい赤く充血した。あるいは白濁したポスター。上まぶたをひっくり返される時の恐怖……も含めて、どういうわけか目医者さんは怖くて大好きな空間です。