8 ほんの少しだけ
夜中、ソフィは喉が渇いて起き上がった。隣のベッドでは、アランがよく眠っている。
そっと屈みこんでアランの顔を覗きこむ。窓から差し込む月明りは宝石のヘリオドールを溶かしたようなレモン色。そろそろ満月が近いのだろう。
ソフィはためらいがちに手を伸ばして、アランの頬にそっと触れた。熟睡しているのか、気付く様子もない。
(どうして今日は、あんなに変だったの? アランらしくもない)
勇気を出して、指を左に移動させる。ふわりと風のようにアランの唇を指で撫でた。
かさついた唇の感触に、胸が早鐘のごとく賑やかな音を立てる。
顔が火照って熱い。ソフィは夜風に当たろうと、少し窓を開けた。夜の木々の香りのする風が、一枚の紙をひらりと床に落とす。
『エルヴェーラ・キルナ嬢の情報を求む』と記された紙だ。かなりの額の報奨金付き。五年くらいは遊んで暮らせるのではないだろうか。
「キルナってカシアとの国境の地よね。確か地名がそのまま辺境伯の姓となっている。それくらい強大な力を持っていたって、学校で習ったわ」
でも確か、キルナ辺境伯の一族は滅ぼされたのではなかったか。
エルヴェーラ嬢の年齢は、生きていれば十三歳。髪色は銀色で目は深い蒼。
「世の中には似た人がいるのね」
ソフィは紙を机に戻した。どうやらアランの本に挟んであったようだ。栞として使っていたのだろうか。
窓を閉めてベッドに戻ろうとしたが、今も指先のかさついた感触が抜けない。
いつまでも子ども扱いするくせに、挨拶のキスをしてくれなくなったアラン。
今ここで眠っている彼にキスをしたら、変態って怒られるのかな。
「怒られてもいいよ」
ソフィは隣のベッドに膝をかけて、身を乗りだした。
誰も見ていないなら……ほんの少しだけ。
銀の髪に月の光を宿しながら、ソフィは瞼を閉じた。
いつもあごや頬のひげを触っているけれど。本当は口づけてほしかった。恋人みたいなキスを望んでいた。
伯父と姪は恋人にはなれないって、分かっているけど。
軽くアランと唇を重ねる。指で感じたのと同じ、かさついた感触だ。
髪が彼にかからないように手で押さえながら、すぐに顔を離した。
アランの寝息に変化はない。大丈夫、ばれてない。
(おやすみ、アラン)
自分のベッドに戻り、布団にもぐりこんでソフィは眠った。
誰にも内緒、アランにも秘密。大丈夫、お月様にしか見られてないから。
◇◇◇
ソフィが眠りに落ちるまで、アランは身じろぎもできずにいた。
あれは、いつものキスをねだる子どものソフィではなかった。
普段なら「何をする。この変態」と彼女の頭を手で押さえて制止しただろうに。
なぜ、それができなかったのだろう。自分でも分からない……なんて、嘘だ。もう理解している。自分もソフィのキスを受け入れたいと願ったからだ。
ソフィが寝返りを打ち、アランの方を向いた。彼女の健やかな寝息を確認して、ようやく上体を起こす。
他人として育てた方がよかったのだろうか。だが、ソフィには家族の愛情を与えてやりたかった。物心つかぬ内に家族と乳母を亡くしたこの子を、誰よりも大事にしてあげたかった。
アランはベッドから降りると、服の入っている棚へと向かった。
一番上の引き出しを開いて、その奥に大切に保管してある布を取りだす。あの日、ゆりかごに入っていた小さなブランケットだ。ウェド語の飾り文字でエルヴェーラとの縫い取りが見て取れる。
柔らかな手触り。この家にあるどの布よりも柔らかく、三十三年時間の人生で一番優しい感触の布だ。
上質な世界で暮らすはずだったエルヴェーラの未来を奪ってしまったのは、他でもない軍に属する自分達だ。
もしキルナ辺境伯が罪を犯さなければ、エルヴェーラはどんな可憐な令嬢に育っていたことだろう。
泥んこになって川に入ってカニを捕ることもなければ、羊を避けながら丘陵地帯を走りこんだり、体を鍛えることもなく、優雅にダンスを踊っていただろうか。
「本来は俺なんかには、手の届かないレディなんだよな」
ソフィとの二人暮らしが長く、あまりにも近くにいすぎるから、つい忘れてしまう。
「お前の『好き』は、家族としての愛情じゃなかったんだな」
アランは窓ガラスに映る自分の姿を見た。貴族でもなんでもない、ただのおっさんだ。
せめて十歳若ければ、ソフィの気持ちを受け止めることができただろうか。
そう考えて首を振った。
保護者としての愛を注ごうと決めたはずだ。自分の気持ちを自覚したからといって、すぐにそれを覆すなんて、きっとしてはならないことだ。
◇◇◇
翌日、ソフィが学校に向かうと、教会の柱という柱にエルヴェーラを捜す紙が貼ってあった。
「なに、これ。ちょっと狂気じみてない?」
「テオドルの仕業ですよ。この地に悪をのさばらせないって、まるでヒーロー気取りですね」
隣の席に座るソフィに、クラーラが説明してくれる。クラーラが転校してきたのは、一年前のこと。男子に赤毛を引っぱられ、からかわれていた彼女を庇ったのが、親しくなった理由だ。
紅葉を連想させるクラーラの髪は、とても綺麗だと常々ソフィは思っている。
「あら? ソフィ。今日は髪に艶がないのでは?」
「あ、うん。そうね」
普段よりもキシキシとした感触の髪に、ソフィは手を触れた。
「アランがリンスを忘れちゃったの」
「アランがリンスを?」
「ほら、石鹸で洗った後ってリンゴのビネガーとカスターオイルを髪につけないと、ぼさぼさになるんでしょ」
「いえ、リンスは分かりますけど……その、まさかアランがソフィの髪を洗ってるなんてこと……ないですよね」
クラーラは口ごもりながら、視線を泳がせている。
しまった。これってうちだけのルール?
ソフィに任せておくとせっかくの髪が傷むからと、子どもの頃からアランが洗髪だけはしてくれるけど。髪の長い人って、そういうもんじゃないの?
(もしかして、うちっておかしいの?)
そういえば学校の友達からも、伯父さんの話は聞かない。せいぜい、いとこと遊んだという程度だろうか。
「伯父と姪って感じじゃないですよね」
「じゃあ、クラーラにはどんな風に見える?」
「そうですね。年下の姫に仕える騎士、でしょうか。騎士はいい歳なんですけど、少女の姫に忠誠と人生を捧げるんです」
ぷっ! ソフィは吹きだしてしまった。
「それはないわー」
けれどクラーラの表情は真剣で、冗談を言ったわけではなさそうだ。
ソフィはうつむき、思わず唇に手を触れた。
伯父と姪に見えないのも当然かもしれない。
だって自分からアランにキスをしたんだもの。それもいつもねだってる子どものキスじゃなくて……。
昨夜のことを思い出し、ソフィは頭の奥が熱くなった。
今朝、アランとまともに顔を合わせることができなくて、会話もほとんどないままに家を出てきた。
大丈夫、アランは眠っていたから。気付かれていない。
それでも、自分の行動を消すことはできない。
「……なんで、あんなことしちゃったんだろ」
頭を抱えて机に突っ伏せる友人を、クラーラはどう扱っていいのか分からないようで、大きなため息をついた。
「おい、そこの銀髪!」
いきなり髪を引っ張られて、ソフィは跳ねるように顔を上げた。見れば、テオドルに髪を掴まれている。
「あんたね、わたしの髪は馬の手綱じゃないのよ」
「ふん。お前なんか馬以下だ。ぼくは知ってるんだからな」
テオドルは鼻息も荒く、ふんぞり返った。
「お前、エルヴェーラ・キルナだろ。犯罪者の娘の」
「ああ、最近よく聞く名前よね」
軽く受け流したが、テオドルはそれが気に入らないらしい。柱の紙をはがして、机に叩き付けた。
「年齢、髪の色、目の色。全部一致する。お前がエルヴェーラに違いない」
「クラーラ。ウェドの人口って何人くらい? その中で十三歳で性別が女の子ってどれくらいいるのかな」
「さぁ、詳しいことは分かりませんが。地方都市であるプーマラでもおおよそ一万人。王都は五万人くらいだそうですから。ウェド全体で十万人以下ってことは、まずないですね。単純に二で割って女性が五万人以上、十三歳に限定すると……うーん、ざっくりとですが、たった千人ってことはないですよね」
ソフィは立ち上がり「どーよ!」と胸を張った。
「国中の女の子一人一人に確認をとってから、来なさいよね。そもそも、そのエルヴェーラが生き延びていたとして、国内にいるとは限らないじゃない」
「うっ……」
テオドルは口ごもった。騒いでいる二人を、学友たちは遠巻きに眺めている。すぐに先生が来て、授業が始まった。
授業中もソフィは視線を感じた。どうせテオドルが、まだ諦めきれないんだろう。そう思ったけれど、顔を上げた時に目が合ったのはクラーラだった。
「どうしたの? クラーラ」
「……いえ」
クラーラはすぐにうつむいて、ノートを取り始めた。
変なの。
「このウェドで銀髪って少ないんですよ。主に北方のキルナ地方の人に顕著な特徴なんです」
ぽつりと呟いたクラーラの言葉が、耳に残った。