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4 暖炉の前

 アランは暖炉に薪をくべて火を熾した。ぱちぱちと爆ぜる赤い火の粉が、暗くなった室内をぼんやりと照らす。


「訳が分からないんだがな……」


 横顔を火の色に染めながら、アランはぽつりと呟いた。寝室には暖炉がないので、居間に敷物と布団を敷いてソフィを寝かせている。

 苦しそうに何度も寝返りを打つのは、よほど具合が悪いせいだろう。


「なんで秋に川に入ろうと思ったんだ? 理解できない」


 テオドルの監視中だったから、嬉しそうに鼻歌を歌いながら川に入っているソフィを止めることができなかった。もし仕事中でなければ、ソフィの体を担ぎ上げて速攻で家に戻っていただろう。


「泥ガニなんか捕って、いったい何が欲しいんだか。俺に言えば、買ってやるのに」


 アランは手を伸ばして、ソフィの頬にかかる柔らかな銀の髪に触れた。

 指からするりと落ちていく髪。アランの髪は黒くて硬い。

 同じものを食べ、同じ海藻の灰とオリーブ油から作った石鹸を使っていても、こんなにも手触りが違うのかと思うほどだ。

 それが性別によるものなのか、身分差によるものなのか分からないが。


 アランは立ち上がると、井戸に水を汲みに行った。

 外はすでに日が落ち、薄着では肌寒いほどだ。

 黄色く染まった葉が、ひらひらと北風に舞い落ちてくる。

 町から外れた場所にあるアランの家は、周りを木々に囲まれ、隣家からも遠い。


 正確には赤ん坊のソフィと共にここに住むと決めた時に、木を植えた。春から夏の短夜は茂る葉が人目から隠してくれるし、秋から冬にかけての長夜には、落ち葉を踏む音が人の気配を教えてくれる。


 エルヴェーラを追いかけてくる敵をすぐに察知できるように。

  そう考えて、苦笑が洩れた。


(敵……か。かつての仲間だろ)


 見ず知らずの顔もろくに覚えてもいない乳母の書き置きを目にしなければ、エルヴェーラを救おうと思わなかっただろうか。

 カーテンの陰に隠されていたあの子を抱え「反逆者の娘を捕まえた」と、誇らしげにグンネルの元へ連れて行っただろうか。


 アランは井戸から水を汲み上げながら、首を振った。

 自分は軍人だったが、命懸けで誰かを救いたいとは、あの十三年前まで一度も考えたことがなかった。王に仕えるアランよりも、赤子に乳を飲ませる乳母の方が、よほど覚悟があったのだ。


(たぶん、見つけたのが俺で良かったんだろうな)


 それはエルヴェーラの命を救えたことだけではない。もし他の誰かが軍人としての自分の未来をなげうって、この年まで彼女を育てていたとしたら。

 突然、派手な音を立てて井戸の桶がへこんだ。金属の桶だから割れはしないが、不格好な見た目になってしまった。


「しまった。やっちまった」


 強靭頑丈バケツといい、どうやら今日は物がよく壊れる日らしい。


 カサッ、という乾いた音。とっさにアランは周囲に視線を走らせた。

 カサ……カサ。風に吹かれた落ち葉が、地面を滑っていく。

 ほっと息をつき、家の中へと戻る。ここは二人きりの楽園だ。誰にも邪魔されたくないし、させない。


「うわっ」


 家の扉を開けた途端、何かに体当たりされてアランは思わず声を上げた。もちろん、よろけることはないが。

 暖炉の明かりを頼りに、布団を見るとソフィの姿がない。というか、今アランにしがみついているのだから、おとなしく寝ているはずもない。


「どうしたんだ? 寝ていなきゃダメだろうが」

「だって……アランがいないんだもん」

「俺は水を汲みに行ってただけだ。ほら……」


 差しだしたカップの水はほとんどこぼれ、床を濡らしていた。これじゃあ、何のために井戸に行ったのか分からない。


「もう一度汲んでくるから、横になっていろ」

「いや。わたしも一緒に行く」

「あのな、ソフィ。我儘を言うもんじゃない。すぐに戻るから、ちゃんと飲むんだぞ」


 アランは伸び掛けた前髪をかきあげながら、ため息を洩らした。自分の育て方が悪かったのか、このお嬢さんはすぐに「離れたくない」とか「一緒にいたい」と甘えたことを言う。

 中でももっともアランを悩ませている我儘がある。それは……。


「口移ししてくれたら、飲む」


 ほら、きた。

 ソフィが抱きついているから、身動きが取れないが。心の中ではアランは頭を抱えてしゃがみこんでいる。


 恋愛経験もないくせに、なんでそういうことだけ、ませてるんだ。お前は。

 どこで覚えてくるんだ。学校か?

 ソフィが元気な状態なら、こんこんと説教をするところだが。たぶん今、言い聞かせるともっと熱が上がる。


「じゃあ選べ。水を自分で飲むか、苦い薬を口移しで飲むか」

「うっ」


 ソフィがひるんだ。

 よしよし、ソフィは薬湯が大の苦手なんだ。なにしろ薬湯を飲むと寒気がして、全身に鳥肌が立って、よけいに気分が悪くなるらしい。むしろ睡眠をとって治すという動物のような方法が、彼女的には一番なのだそうだ。


「さーて、俺は薬湯の用意でもするかな。風邪は引きはじめが肝心だ。かなり濃く煮出した方がいいだろうな」


 木の皮と草の根の甘苦い味を思い出したのか、そうーっとソフィがアランから手を離す。


「水、自分で飲む」

「じゃあ、もう一度汲んでくるからな。追いかけてくるなよ。ちゃんと待ってろよ」


 念を押すと、おとなしく「うん」とうなずいた。普段から、これくらい素直だと助かるんだが。


 ソフィを暖炉の前に座らせて、水を飲ませる。細くて白い喉元が、こくりと動く。


 疲れたのか、ソフィはアランの膝を枕代わりに眠ってしまった。服を通して、彼女の熱が肌に伝わってくる。

 高熱というほどではなさそうだし、呼吸も荒くない。彼女の額に滲む汗を、アランは布でぬぐってやった。


 静かな夜。ただ眠気を誘うような、薪の爆ぜる音だけが聞こえる。


 いつまでこんな風に二人でいられるのだろう。自分はあくまでもソフィの保護者だ。いつかは彼女は結婚して、この家を出ていく。

 そうすれば保護者としての役目も終わりだ。他の町に移り住んでもいいし、仕事を変えてもいい。恋人をつくっても何の問題もない。


「自由になれるんだよな」


 ぽつりと呟いた言葉に、ソフィが「う……ん」と反応する。それがまるで「アランは自由だよ。わたしも自由。お互い、恋人を作ろうよ」と背中を押されたように思えた。


 ソフィがアランに抱きついたり、キスをせがむのは、ただ恋に恋しているからだ。相手がアランでなければならないという理由はない。


「少し寒いな」


 隙間風が入っているのだろうか。アランは布団を自分とソフィにかけた。

 それでも、体の内側がやはり寒い気がした。

 十三年かけて伸びた木々から、フクロウの寂しい鳴き声が聞こえた。


 木々がもっと育って深い森になればいい。そうすればこの家とソフィを隠してくれるから。


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