31 夢を見る
寒さが厳しくなると、ソフィが通う学校は教室を移動する。
晩秋から初冬までは教会の柱廊に毛織物の幕を張り、風をしのぐのだが。雪が降る頃には、たとえストーブで薪を燃やしても、柱廊に並べた席では手がかじかむし吐く息も白くて、勉強どころではない。
「ソフィ、久しぶりですね。もう、いいんですか?」
柱廊で声をかけてきたのは友人のクラーラだ。秋よりは冬の方が湿度が高いせいで、今日は赤毛の爆発は収まり気味だ。
「うん。ようやく体調も戻ったからね」
へへ、とソフィは愛想笑いを浮かべた。
長い欠席の理由を、アランは「ソフィは風邪をこじらせ、完治する前に腹を下し、プーマラの診療所で診せるのは不安だったので、都市部の病院に連れて行った。そのせいで欠席の連絡ができずにいた」と、先生宛てに手紙を書いていた。
お腹の件は、もうちょっとましな理由はなかったのかと問い詰めたいところだ。
「まぁ、元気ならいいです。お帰りなさい」
クラーラはにっこりと微笑んだ。
深くは事情を探らない友人の優しさを、ありがたいと思う。
教会の空いた部屋を利用した冬期の教室のドアに手をかけると、中から騒々しい声が聞こえた。
「なんで地主の息子であるぼくが、こんな狭い教室に押し込められないといけないんだ」
テオドルだ。まーた言ってる。
ソフィは顔をしかめた。金持ちというか、土地持ちを鼻にかけるテオドルの自慢と自己顕示欲の強さは、さすがに懐かしいとは思えない。
やれやれ、とため息をつきながら、ソフィはカバンから裁縫道具を取りだした。
「うわぁ。上等な革ですね」
「ありがとう、クラーラ。これでね、アランの手袋を縫おうと思ってるの」
商家の若旦那であるカスパルに頼んで、質のいいなめらかな革を買うことができたのは幸運だった。
アランが眠っている時に、こっそりと手のサイズを計って型紙を起こし、そのとおりに革も裁断した。できれば内緒で贈ってびっくりさせたいから、アランにばれないように作らないといけない。
立体的に縫う必要があるし、パーツも多くてなかなか時間がかかる。
「なんだよ、これ!」
突然、ソフィの目の前から革が消えた。
何事かと顔を上げると、テオドルが手の型をとった革をつまみあげている。
「もしかして自分で手袋を作ろうとしてるのか? ははーん。貧乏人だから買えないんだな。かわいそうに」
テオドルはソフィの手の届かない位置まで、自分の腕を上げて革をひらひらさせている。
級友たちは「また始まった」という風に眉をひそめている。
「い、いいんですか? ソフィ」
「うん。こっちから先に縫うから」
ソフィはテオドルに背中を向けて、針に糸を通した。
以前はテオドルにからかわれたり、意地悪されるのが当たり前の日常で。それにいちいち反応していたけど。
なんでだろう。もう相手にする必要がない気がする。
「うわっ。見てみろよ。手袋の端に穴が開いてるぞ。しかも点々と。穴あきの安い革しか買えないんだな。あー、こんなのをはめさせられる奴は大恥だ。かわいそうに」
聞こえよがしに嫌味を言われるけれど、気にしない。
だって時間がないんだもの。のんびり縫っていたら春になってしまうじゃない。
「なんだか変わりましたね、ソフィ」
「そうかな?」
ソフィの隣の席に座りながら、クラーラがまじまじと見つめてくる。けれどその瞳は穏やかで、微笑んでいるようだ。
「欠席している間に、大人になったみたいです」
「へへ、だと嬉しいな」
なごやかに会話する二人のことが気に食わない様子のテオドルは、突然窓を開いた。
冷たい風が教室内に吹きこんで、生徒たちから文句や悲鳴が上がる。
クラーラの髪が風にあおられて、炎のように広がった。
「おいっ、ソフィ。こっちを向けよ。じゃないとこの安っぽい革を捨てるぞ。いいのか本気だぞ」
ソフィがため息をつきつつ、金切り声を上げるテオドルに視線を向けた時、彼の後ろに人影が見えた。
「アラン……、なんで?」
窓の向こうに立っていたのは、アランとカスパルだ。
そういえばアランはこれまでの実績から、若旦那であるカスパルの護衛を一任されたんだった。それも短期の仕事ではなく、長期にわたって。
ソフィの問いに答えるわけでもなく、アランはテオドルから取り上げた革をしげしげと眺めている。
「鹿か。相当に高級な革だな。鹿革は、数ある革の中でも、もっとも丈夫なんだ。負荷がかかった場所の力を分散させるから、怪我をしにくいんだよ」
「アランさん、よく知ってるっすね。うちの店でも取り扱いを始めたばかりなんすよ」
「まぁ、軍にいた時に上官が使っていたからな」
テオドルから革を取り上げたのはアランとカスパルだった。
子どもしかいない教室の窓の向こうに、上背のあるアランとひょろりと背の高いカスパルが並んでいるのは、妙な光景だ。
あんなに手荒に扱われていた革を、二人は丁寧な手つきで持っている。
「坊ちゃん。革に穴を開けるのは、針を通すためなんだ。布と違って縫いにくいからな」
アランの指摘に、テオドルは顔を真っ赤にした。
「そんな下々のことなんか知るか。ぼくが手袋を縫うわけじゃないからな。縫うのは針子だろ」
「下々のことを知らずに、上には立てないっすよ?」
答えたのはカスパルだった。新興とはいえ手広く商売をする商家の若旦那だ。それなりに苦労も多いだろう。代々続いた地位に安穏としているテオドルを、心底呆れた目で眺めている。
「見る目がないっていうのは、恥ずかしいっすよねぇ」
「だよな」
アランが右に左にと上げた腕を動かすと、テオドルも踊らされるように左右に飛び跳ねている。
痺れを切らしたテオドルは、アランを睨みつけた。
「おい、いい加減にしろ。用心棒。お前なんかもう雇ってやらないぞ」
「雇うもなにも……お前の父上との契約はすでに終わったしな。そもそも俺に子守りは合わん」
「子守りって言うなっ! あんな貧相な小娘の子守りもうまくできないくせに」
テオドルが窓の桟から身を乗り出して、アランに掴みかかろうとした。アランは軽く後ろに下がったので、テオドルは体の均衡を崩して、手をバタバタさせた。
「意気地がないのに、よく吠えるな。増長するなよ、お坊ちゃん。俺を馬鹿にするのは見逃してやるが、ソフィに関わることは許さん。前にも忠告したはずだよな」
アランは右手の親指で、テオドルの額を押さえた。ただそれだけで、テオドルはもう動くことができない。
「い……痛い」
「そりゃそうだろ。痛くしてんだ」
「離せよ」
「それは命令か?」
「き、決まってるだろ」
テオドルの声は震えている。それをアランに悟られないように必死に押さえこんでいるようだが、成功していない。
「なぁ、若旦那。どうする?」
「この子は礼儀を学ばせるべきっす。峠の走り屋のグループに放り込んでみましょうか。結構厳しく鍛え上げられるっすよ。地主さんに話を持ち掛けてみるっす」
カスパルの提案に、テオドルの顔から血の気が失せた。
「いいっすね?」と確認をとるその表情が、気のいい若旦那ではなく、峠のカスパルと呼ばれる、やんちゃすぎる男のぎらついた目になっていたからだ。
放心状態のテオドルの手から、アランは革を奪いとった。教室内に向けて手招きし、ソフィを呼び寄せる。
三人のやり取りに注目していた級友たちも、それぞれの会話や予習に戻っていく。ただ一人、テオドルだけが、力なく床にへたり込んでいた。
「ほら、大事な物なんだろ」
「う、うん。ありがと」
ソフィが差しだした両手に、アランが革を置いてくれる。
「どうして学校にアランがいるの?」
「通りがかっただけだ。ついでに郵便局で手紙を受け取ったから、届けに来た。今日は帰りが遅くなるかもしれないからな」
無表情で答えるアランの背後で、カスパルが肩を震わせている。
「素直じゃないっすね」という小さな声が届いた。アランは、しきりに自分の顎に触れながらカスパルから視線を逸らす。
今朝はソフィが目覚める前に、アランは仕事に行っていたし。顔を合わせてなかったから、嬉しいけど。
渡された革にも封筒にも、彼の手の温もりが残っているような気がして。
なんというか……こう。頬が熱い。
顔が赤くなったら、皆に見られて恥ずかしいのに。アランだって困るのに。
ソフィは両手で頬を挟んで、窓に背中を向けた。
そんな彼女をアランは一瞬目で追ったが、それだけだった。
「ほら、行くぞ。若旦那。用は済んだ」
さっさと歩きだすアランの背中とソフィを見比べて、カスパルはもぞもぞと体を動かす。
「見てるこっちが恥ずかしいっす」
◇◇◇
手紙の差出人はグンネルだった。
宛名にはアランとソフィが併記してあるけど、先に開封するのも気が引けて、結局アランが仕事を終えて家に戻ってくるまで待つことにした。
「わざわざ学校に持っていった意味がないじゃないか」
「ごめんね」
夕食の片づけが終わったテーブルで、ソフィとアランは向かい合って座っていた。
「まぁ、ソフィの顔を見ることができただけでも、良しとするか。今朝は寝顔しか見れなかったからな。寂しかったんだ」
「……っ!」
ソフィは言葉を詰まらせた。
「俺の手袋を縫おうとして、ここしばらく夜更かしをしていただろ」
「アランのだって知ってたの?」
「手首や指の周りに紐を巻かれてサイズを計られたら、そりゃ目も覚めるさ。でも、寝たふりしていた方がよさそうだったからな。これからは隠れて作るんじゃなくて、俺の前で縫っても問題ないぞ。プレゼントしてくれる気持ちは嬉しいが、俺にとってはソフィが一番大事だからな」
まっすぐな言葉に、また頬が熱くなる。
ランタンの光のせいじゃないことは明白だ。
「革や糸ばかりじゃなくて、俺のことも見つめてほしいんだ」
「そ、そんなこと言ってなかった」
「学校で言えるはずないだろ。そうでなくても若旦那に、いつもからかわれてるのに」
「なんて?」
尋ねられたアランは、口を閉ざした。だから気になって、テーブルの反対側にまわりこんでさらに訊いてみる。彼の顔を覗きこみながら。
「ねぇ、教えてってば」
「ソフィ。俺はお前を大人扱いするって言ったばかりだろ。なんでそんな子どもっぽいことをするんだ」
「だって、知りたいもの。知的好奇心とか探求心ってやつ?」
「ただの好奇心だろ」
まったくもう、と頭を掻きながらアランは椅子を引いた。
座ったままでソフィの手を取り、てのひらにくちづける。
「え、えっと。その……」
「こういうことをするのかって、訊かれるわけだ。若旦那に。いくら雇い主とはいえ、答えられるわけないだろ。ソフィが持っていた革に関しても『よかったすねー。出来上がりが待ち遠しいっすねー』って言われる。まったくあいつは思春期なのか?」
それは大変そうだ。
でも、アランが全然手を離してくれないんだけど……。
ソフィは握られたままの手を動かすこともできずに、立っていた。
その時、ぐいっと腕を引かれて、アランの膝に座る格好になってしまった。
「まぁ、若旦那の指摘は正しいんだけどな。手袋は急がなくていいが、出来上がったら大切にする」
「使ってくれる? この手袋がアランの手を守ってくれたら、すごく嬉しいの」
「ああ。俺もソフィに守られるなら、とても嬉しい」
うわわわっ。どうしよう。心臓がバクバクいってる。
ソフィは耳まで熱くなるのを感じて、慌ててアランの膝から降りようとした。
けれど彼はそれを認めずに、そのままの態勢で封筒を手に取った。
手紙に嬉しいことでも書いてあったのか、ランタンの明かりに照らされた横顔が、柔らかく微笑んでいる。
睫毛が作る影、冬でも日焼けの残る肌。間近で見つめていると、不思議と心が落ち着いてきた。
ソフィは手を伸ばして、アランの頬を撫でた。伸びかけのひげが指先をかすめる。
少し硬い感触を「痛い」とよく文句を言ってきたけど。アランに触れているって気がして、本当は大好き。
「くすぐったいぞ」
「だって、アランが離してくれないから」
「離してほしいのか?」
「やだ」
口の端を上げながら、アランは便箋をソフィに手渡した。読んでみろ、という風に。
「グンネルさん、何の用なの?」
「用なんてないさ」
変なのと思いながら、ソフィは手紙に目を通した。
便箋には、整った文字でプーマラに行くとの旨が書かれていた。
――別にプーマラに用事があるわけじゃないの。私があんた達に会いたいから行くのよ。
春になったら会いましょう。
その頃にはもう生き残りの令嬢とおじさまじゃなくって、恋人同士かしらね。
ソフィがアランとの日々を夢見たように、私はあんた達に会うことを夢見てるわ。
グンネルの手紙に、ソフィも口元をほころばせた。
床に、窓の形を切り取ったかのような四角い明りが差しこんでいる。
雲間から見える月は、淡い光の暈に包まれている。この遠い空の向こう、同じ月を見ている人のことを思った。
「春、待ち遠しいね」
「ああ」
アランの長い指が、銀色の髪を優しく撫でた。




