30 ふたつめの夢は
久しぶりに戻ったプーマラは、雪がちらついていた。
灰色の雲に覆われているのに、北の果てのキルナよりも空が明るく見える。
雲の厚さが違うのだろうか。
懐かしさにほっとするけど、本当は少し不安を感じてもいる。
(当たり前のような顔をして、帰ってきてよかったのかな)
ソフィは足の重さを感じて、徐々に歩みが遅くなった。隣を歩いていたアランが足を止める。
何かを問いかけるわけでもなく、彼はただ手を伸ばしてきた。その指先が、ソフィの指に触れる。
青いシミがついた手袋はもうはめていないから、アランの指はとても冷たい。
ぐいっと力をいれて、アランはソフィの手を引っぱった。
「ちょ、危ないっ」
「転んだりしないだろ?」
「そりゃそうだけど」
小走りになりながら、ソフィは前に進む。家の前まで来たところで、アランはソフィに鍵を渡した。
腰につけた革の鞄に入っていた鍵は、アランの手よりもいっそう冷たい。
ドアにつけられた錠前に、ソフィは鍵を差しこんだ。指がかじかんでいるとは思わないのに、なかなか解錠できない。ようやく鍵を外せたと思ったら、アランが先に扉を開けてくれた。
ギィ……と軋んだ音。しばらく閉めきっていたせいか、家の中は薪や薬草などの匂いがこもっていた。
普段なら、すぐに窓を開いて風を通すけれど、ソフィはその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「おかえり、ソフィ」
扉を全開にしたアランが、ソフィの方を向いて微笑む。
――よく帰って来たね。二人の家へ。
そんな言葉が伝わって来た。
ソフィが窓を開けて換気をしている間、アランが水を汲み、暖炉に火を入れてくれた。
湯の沸くシュンシュンという音。やかんの口からは、湯気がでている。
夏に収穫したハーブを使ったお茶を、二人分。ぽってりとした素朴なカップがテーブルに二つ並ぶのを見るだけで、にやけてしまう。
「変な顔をして、どうしたんだ?」
「変じゃないもの」
アランに指摘されて、ソフィは顔をしかめた。けれど弾む気持ちを抑えることができない。また口の端が、上を向いてしまう。
これじゃ、にやにやした変な奴と思われてしまう。
ソフィはあわてて背中を向けた。なんとか表情を引き締めようとしているのに、テーブルをまわりこんだアランに顔を覗かれる。
「きゃっ。来ないでってば」
「本当に大丈夫か? 言いたいことがあるなら、はっきり言った方がいいぞ」
「ないからっ」
言えるはずがない。アランと二人の生活に戻れたことが嬉しくて、つい表情がゆるんでしまうなんて。まるで屋台で飴菓子を買ってもらった子どもみたいじゃない。
ソフィは目を閉じて深呼吸した。心を落ち着けて瞼を開くと、一番最初に視界に映ったのは寂しそうな顔をしたアランだった。
「ど、どうしたの?」
今度はソフィが尋ねる番だった。
「いや。うぬぼれかもしれないが、以前ならソフィは俺のことをうるさいくらいに『好き』だと言ってくれていたから。なんというか……こう……」
口ごもりながら、アランが頭を掻く。目と目が合うと、なぜかアランはすぐに視線を外した。
(これは、もしかして)
椅子の背もたれ越しにソフィは身を乗り出した。キスするつもりで。
だが、アランはそれを察知したのかぐいっと身を引いてしまう。
「なんで逃げるのよー。キスさせてってば」
「それはダメだ」
どうしてよ、とソフィは頬をふくらませた。
キルナ城の温室でアランに触れられて、あんなにもどきどきしたのに。あの時だってアランがくちづけたのは、ソフィの髪にだった。
アランは困ったように眉を下げると、ソフィに尋ねた。
「そういえば、ふたつめの夢のことを聞いてなかったな」
「話を逸らさないでってば」
「まぁまぁ」
アランにたしなめられて、ソフィは大きく息をついた。
(なんだー、今日もキスは失敗かぁ。これまで、アラン本人には内緒のキスしかできてないもんね。いつか、ちゃんとアランの唇を奪うんだから)
これは夢じゃなくて、決意。
ソフィの夢は、アランと結婚することだ。彼もそれを望んでくれてたから、なんというか夢は叶ったというわけで……。
(よくよく考えると、恥ずかしいかも)
頬が熱くなり、ソフィは思わずうつむいた。
「ソフィ?」
「あ、うん。もうひとつの夢ね。アランと、いつまでもこのままでいられたらいいなぁって」
「それは難しいな」
即答で却下だ。
予想外の返答に、ソフィは唖然と口を開いた。
「え、なんで? だってアランはわたしのことを……」
「だからだ。ソフィに求婚しておいて、いつまでも保護者のままでいられるはずがない」
真面目な顔で、アランに見つめられる。彼の瞳にはソフィだけが映っていた。
「ソフィはこれからいろんな人と出会うだろう。そうであっても、俺を伴侶として選んでほしい。だから、いつまでもソフィを子ども扱いすることができない」
「アラン?」
「突撃するようなキスが最初の思い出になるのは、困るだろ?」
「と、突撃って」
「じゃあ、激突だな」
アランは楽しそうに笑い出した。
(そりゃ、大きく間違ってはいないし。わたしに色気なんて、これっぽちもないけど)
ため息をついたソフィの髪に、アランが手をかけた。
いつものお決まりの髪へのキスだろう。そこから先に進むことは、まだしばらくはない。
そう思っていたら、間近にアランの顔が近づいてきた。
「え?」
「こういう時は、瞼を閉じるもんだ」
言われるままに瞼を伏せると、唇が重なる感触を覚えた。少しかさついた乾燥したそれが、アランの唇であると気付くのに、しばらくかかった。
驚きにソフィは立ち上がろうとしたが、首の後ろに手がまわされた。彼の手に力が入っているわけではない。優しく触れられているのに、まるで動きを封じられてしまったかのようだ。
ソフィはアランの背に腕をまわして、しがみついた。
雪は音もなく降り、窓は室内の温かさに白く曇っていく。
火をつけたばかりの頃は、薪の表面だけが燃えていて炎が不安定だったが。しだいに芯まで燃え始めたのか、赤く揺らめく炎の形が落ち着いている。
アランの服越しに、心臓の音が聞こえる。安心できる音を聞いていると、しだいに瞼が重くなってきた。
「……眠いかも」
「おいおい。緊張感のない奴だな」
ソフィを抱きしめたまま、アランは苦笑した。




