3 アランの弱点
黒髪に木の葉をつけ、「やれやれ」と言いたげな風情で、アランは腕を組んでいる。服の上からでも分かる胸板の厚さ、腰には剣を佩びている。
「……何の目的で?」
ぼそりとアランが呟いた。普段よりも低い、地面の底から発するような声だった。ソフィは、そんなアランの声を滅多に聞かない。
「決まっているだろ。あんたの姪はぼくを侮辱した上に攻撃した。地主のぼくをだ。制裁を加えるのが当然だろ」
「制裁って、どんな風にだ?」
「そうだな。ぼくは蹴られたから、同じように蹴り飛ばせ。いいな」
テオドルはまくし立てるが、アランは動かない。目を細くして、冷ややかにテオドルを見下ろしている。
業を煮やしたテオドルは「早くしろ」とアランを急かすが、まったく効果がない。
「あー、とりあえず言っておくが。まず地主は君の父親であって君ではないし、俺は君に雇われたわけではなく、監視を任されたんだ。それからソフィに先に手を出したのはそちらだ。彼女は防衛したように俺には見えた」
「なっ……」
テオドルは口ごもった。おろおろと視線を泳がせるその様子は、今までよりもさらに幼く見える。
「これは子ども同士の喧嘩だ。悔しいのなら他人を使うのではなく、自分でやり返せばいいだろ」
「い、いいのかよ。あんたの娘みたいなもんだろ」
「どうぞ。だが、さっきのように倒れる程度では済まないだろうな。骨折は覚悟した方がいい」
アランの口調は冷ややかだ。その琥珀色の瞳も、感情を押し殺したように冷たい。
そんな顔もするんだ。ソフィがふだん見ることのないアランの表情だ。
「ほ、本当にやるからな。後で文句を言っても知らないからな」
「どうぞ」
「本当の本当にやるぞ」
「俺に遠慮せずに、やればいいだろ」
動じないアランに痺れを切らしたのか、テオドルは今度はソフィを睨みつけた。こっちの方が恐れるに足りない、与し易い相手と見当をつけたのだろう。
「おい、こいつは姪であるお前を見捨てるつもりだぞ。いいのか」
「……だから、なによ」
泥ガニの爪がとれたら買い取りの値段が下がってしまう。だから暴れないように、ソフィはカニを細長い草の葉でぐるぐると縛った。
ちょっと倒錯的な姿のカニになってしまったが、まぁいい。バケツに入れておこう。
「お前は嫌われたんだ。姪っ子だから、実の親じゃないもんな。ソフィなんか、体を張って守る価値もないってことだろ。いくら伯父だからと懐いていたって、いずれ捨てられるんだ」
ベキッ。両手で握った空のバケツの取っ手が曲がった。
「おかしいわ。強靭頑丈バケツって名前で売っていたのに」
ひしゃげた金属の取っ手を持つソフィを、テオドルは目を丸くして見ている。どうやら彼の家にも強靭頑丈バケツがあるらしい。庭師が使用しているのかもしれない。
「ねぇ、テオドル。革のベルトを着けてるわよね。貸してくれない?」
「ベ、ベルトなんて何に使うんだ」
テオドルの声はかすれている。
「大丈夫。あなたに腹を立てたからって、ベルトを鞭代わりになんてしないわ」
「そ、そうだよな」
「そうよ。鞭打つなら、ちゃんと乗馬用の鞭か一本鞭を使うわ。じゃないとあんまり痛くないんじゃないかしら。手加減するなんて、地主さまに失礼よね」
「ひぃ」とテオドルが喉の奥で妙な音を発した。その瞳は揺らいでいる。
ちなみに革のベルトは、バケツの取っ手代わりにするだけで、別にそういう趣味があるわけじゃないけど。
テオドルは捨て台詞も残さずに去っていった。何度もソフィが追いかけてこないか確認しながら走るから、つまずいて転んでいる。
「なによ。途中退場なんて、ずるいわ」
やれやれ、とアランが肩をすくめながらソフィの元へやって来た。
いつもよりも早い時間にアランに会えたから、つい顔がほころんでしまう。にやにやしているのがばれないように、ソフィは両手で頬を押さえた。
「妙な仕事を受けたのね、アラン」
「テオドルが勉強を放り出して、すぐに外出するから、それを追いかけろという指示だった。あれはまっすぐに家に帰るだろう。なんでじっと机に向かっていられないんだろうな、あのお坊ちゃんは」
ふとアランが手を伸ばしてきた。大きな指がソフィの両手を外し、頬を撫でてくる。
しゃがみこんでソフィの顔を覗きこんでくるから、心臓が痛いくらいに鼓動が速くなる。
「顔、泥だらけだぞ」
そのまま指で顔を拭われた。節くれだった指なのに、ソフィを撫でる時は、とても優しい。
「怪我はないか?」
「別にテオドルに襲われてないよ」
「当り前だ! もしソフィを叩いたり、蹴ったりでもしようものなら。俺はあいつを……」
アランの声はしだいに小さくなっていった。古い傷の残る右手で顔を覆い、うつむいている。
「……駄目だな。仮にも奴は、今日は俺にとって保護の対象だったのに……許せないとか、こんな気分になるなんて」
はぁー、とアランは大きなため息を洩らした。
アランは不思議。自分が仕事で町を離れる時に、自分の身は自分で守れるようにと、ソフィが自分で戦えるように鍛えてくれたのに。
受ける仕事は、必ず家から日帰りできる場所だけだし。隊商の護衛なら、長くプーマラの町から離れたとしても、大きく稼げるのに。
「アラン」
「外では伯父さんと呼びなさい」
「誰もいないもん」
「……まぁ、そうだが」
アランは周囲を確認しながら、渋々うなずいた。さっきまでも名前で呼んでいたから、今更な気もするんだけど。
「あのね、アラン。もう仕事終わり?」
「ああ、カニを売りに行くのか? ついて来てほしいのか」
「それもあるけど……」
言葉の途中で、ソフィはアランに抱きついた。
仕事が終わったのなら、もう彼を独り占めできる。いつもは家でアランの帰りを待っているけれど。今日は二人の時間が長くなって、やっぱりすごく嬉しい。
ぎゅうううー、と強く抱きしめるが、アランはびくともしない。ただやっぱり辺りに視線を走らせている。
まるで誰もいないのを確認するかのように。
せっかくぎゅっとしてるんだから、自分だけを見てほしいのに。アランは分かってない。
「姪が伯父さんに抱きつくのって変かな。見られたら嫌?」
「そういうわけでは」
ソフィがアランにくっついて甘えると、いつも彼はおろおろする。子どもの頃と同じようにしているだけなのに、変なの。
なんてね。ソフィは、アランに見えないように舌を出した。
卵売りのハンナが教えてくれたんだ。好きな男は翻弄した方がいいって。ハンナは飼っている雌鶏もハンナ……というかハンナ達だから、ややこしいけど。
(ハンナは、わたしの想い人がアランだなんて知らないだろうけど)
アランはいつまでも自分にしがみつく姪をどうすればいいか分からないみたいで、武骨な手をソフィの肩に触れようとしては、ためらいがちに離す。
(ふーんだ、離れないんだから)
ソフィはアランの胸にぺったりと顔をくっつけた。アランの胸も背中も、自分だけの居場所。誰にも渡さないし、渡すつもりもない。
(あれ?)
ふいに、目の前がくらっとした。川岸の木々が、歪んで見える。それになんだか熱い気がする。これは恋してるせいかな。アランのことが目眩がするほど好きで、しかも体が火照っちゃったのかも。
やだ、これだから恋する乙女は。困るのよね。
「お、おい。ソフィ。お前、熱があるんじゃないか?」
そんなのないよ、と答えようとしたのに。無理だった。辺りの景色が闇に沈んでしまったから。
ソフィの叫ぶアランの声が、遠くなる。
どうしてそんな切羽詰ったような声なんだろう。ぼんやりとソフィは考えた。