29 「アラン」と
「城の外に出るぞ。走れるな」
傍らにいるソフィにだけ聞こえるほどに小さな声で、アランは囁いた。
ソフィは、脱出経路を頭の中に描く。
弔いの門近くの城壁に上がった時、運河に掛かる橋に見張りがいなかったのは確認済みだ。中から閂を外せば、外に出られるだろう。
でもレイフの後ろには、馬賊が控えている。落馬で怪我をしたり、馬は逃げてしまっているが。動ける者もいる。
アランはソフィの盾となり、奴らと戦うだろう。
見るからに重そうな閂を外し、蝶番の錆びた門を自分一人の力だけで開けることができるだろうか。
(アランは逃げ切れるの?)
ソフィは、握りしめた拳に力を込めた。
とにかく外へ。一刻も早く、一緒に外に出るためには、どうすれば。
(これだ!)
一瞬目を輝かせたソフィは、すぐに大げさに咳きこんだ。
そのままよろめいて、アランの足下にしゃがみ込む。
そこには、まだ雪を染めた彼の血の赤が鮮やかだ。
「お、おい。ソフィ」
「来ちゃダメ。病気がうつるから」
ソフィは手で口を覆って、咳をする。
真似とはいえ咳をするのは、きつい。
さらに体を屈め、顔を雪上の血に近づける。
「仕立て屋さんが言ってたの。感染するから、わたしに近づいちゃいけないって」
「鼻血がうつるのか?」
ちがーう! これは吐血のつもりなんだってば。
と、言えるはずもなく。ソフィはちらりとアランを見上げて、咳を続けた。
とにかく、うつる病気であると、アピールしなければ。
レイフは、苦しそうに咳きこむソフィに近づこうとして、やはり感染が恐ろしいのか、一定の距離以上は近づいてこない。
げほ……ごほっ、げほげほっ。ごほ、ごほっ。
可愛らしい咳じゃ真実味に欠ける、と思って真剣にやっていたら「おぇっ」と吐きそうになった。
うう、さすがにこれは汚いかも。
レイフが一歩どころか、数歩下がる。
「誰か、イヴォンネさまを医者へ」
鼻と口を手で押さえながら、レイフが周囲にいる馬賊に命令する。けれど馬賊は、彼よりもさらに引いた場所にいる。
「大切な人だと主張する割に、あんたは自分で助けないんだな」
ぐいっとソフィの体が持ち上がった。
咳きこみすぎた涙で滲んだ視界に、アランの顔が映っている。
心配しているような、怒っているような、眉根をしかめた表情だ。それも、とても至近距離で。
まるで子どもの頃に抱えてもらっていたように、片腕で抱き上げられている。
「落ちると危ないから、俺の首にしがみついていろ」
「え、でも」
「早く」と急かされて、おずおずとアランの首に腕をまわす。
あと少し顔を近づけたら、アランの頬にくっついてしまいそうだ。
自分の今の状態を考えると、ソフィは顔がカッと熱くなった。
「イヴォンネさま、お顔が赤うございます。お熱があるのでは」
レイフは明らかにおろおろとしているのに、それでもソフィに近寄ろうとはしない。
まるで見えない壁があるかのように、一定の距離を保っている。
「もう諦めろ。もし仮にソフィがイヴォンネであったとしても、あんたは自分の方が可愛いんだ。自分を犠牲にすることなんて、できやしないんだよ」
「そんなこと、あるはずがありません!」
「ふーん」
アランはソフィを抱えたまま、レイフに向かって歩き出した。「ひぃ」と掠れた悲鳴を上げて、レイフが尻もちをつく。
あわてて立ち上がったが、レイフの動揺の跡は、しっかりと残っていた。
「無理はするもんじゃない。……だろ?」
「わ、私はっ! イヴォンネさまのためならば、この身を投げ出しても惜しくはないっ」
ひゅん、と風の鳴る音。走りだそうとしたレイフの足下に、背後から矢が射られた。
「見苦しい。もうおやめなさい」
後方で矢を放ったのは、グンネルだった。仕立て屋の姿のまま、弓兵を率いている。
「レイフ。あんたには、アランみたいな覚悟がないのよ。感染する病でも、彼は迷うことなくソフィを守っている。それに引きかえ、あんたはどうなの?」
「わ……私は」
レイフは自分が転倒した跡を睨みつけると、薄い唇を噛みしめた。
ソフィはアランに抱えられたまま、墓地を指さした。
「そんなにイヴォンネが好きなら、その身代わりを追いかけるよりも、お墓参りをした方がいいのに。その方が、彼女の魂は喜ぶのに」
とうに枯れてしまった、イヴォンネの墓にかけられた花。
かつてはレイフも墓参を欠かさなかったことだろう。けれど生き写しである娘の存在を知り、イヴォンネの死をなかったことにしてしまった。
レイフは何かを求めるように、手を伸ばした。雪に足をとられながらも、よろよろと歩いて行く。
彼の進む先にあるのは、白い墓地。
「花を……イヴォンネさまに花を」
二つ並んだ簡素な木の墓。その小さい方にかけられた花に、レイフが指を触れた時。枯れた花は崩れて落ちた。
色褪せた花弁が涙のように、雪に散っていく。
声を殺してレイフは泣いていた。花びらを握りしめて。
レイフや馬賊は、グンネルの部下である兵に捕縛された。このまま王都へと連行するらしい。
「マクシミリアン」
弓兵の一人が、アランに向かって歩いてきた。年齢はアランと同じくらいに見える。
ソフィには軍の組織は全く分からないが、彼は一兵士というよりも、部下を指示する立場のような貫禄がある。
「俺は今回、グンネルに無理を言って参加させてもらった。プーマラの町のカスパルって商人が、グンネルの伝言を持って軍に現れて。お前がいると聞いたからな」
それが合図であったかのように、三人の軍人がアランの元に集まってくる。
彼らは口々に「マクシミリアン」とアランを呼ぶ。怒ったように眉間にしわを寄せる人、アランの頭を拳でぐりぐりと押さえつける人もいる。
けれど誰もが、アランから視線を逸らさない。
「連絡ぐらいよこせ。このバカ」
「いい加減にしろよ、勝手に消えやがって。俺は十三年、怒り続けてんだからな」
「……お、俺は」
アランは言葉を詰まらせた。
何か硬い物がのどを塞いでいるかのように、苦しそうに瞼を閉じている。
小刻みに震えるアランの手に、ソフィはそっと手を伸ばした。
冷たいアランの指が、ソフィの手を握りしめる。
離さないでくれと願うように。
呆気にとられた軍人たちは、互いに顔を見合わせてから、納得した様子でうなずいた。
「そうか……その子か」
「よかった。マクシミリアン、お前は一人じゃなかったんだな」
「孤独なんじゃないか、不幸なんじゃないかと心配しただろうが」
かつての仲間に次々とアランは抱きしめられる。
分厚い外套の上からでも、彼らの腕の逞しさが見て取れる。
アランはもがいたが、誰も腕の力をゆるめようとはしない。
まるで離したら、アランが消えてしまうのを案じているかのようだ。
「……くさいし、むさくるしい抱擁だ」
かすれる言葉で返しながらも、アランもまた三人に抱きついた。
アランの落とした涙の雫が、音もなく雪に落ちていった。
「泣くなよ、マクシミリアン。お前の選んだ道は、人として間違っちゃいないさ」
「あり……がとう……」
仲間に応えるアランは、唇を噛みしめて泣き声を立てないように我慢しているようだった。
――俺は……許してもらいたかったんだ。
その声は雪のひとひらと共に、風に攫われるかのように幽かだった。
「再会を喜ぶものいいけどね。さっさと任務を終えなさい」
グンネルが呆れたように肩をすくめて、寒風の中で暑苦しく抱きあう男どもを眺めている。
「アラン。あんたが十三年前にしたことは、命令違反であり任務放棄よ。でも、あんたと同じ立場なら、そうしたいと願う者もいたでしょうね」
グンネルは拳を握ると、その手をぐりぐりとアランの頬に押し当てた。
「痛いぞ」
「痛くしてるのよ。これくらい、残された私たちの十三年の心の痛みに比べれば、なんてことないでしょ。アラン」
「……俺のことを、アランと?」
瞬きをくり返して問いかけるアランに、グンネルは微笑んだ。寂しそうに。
「私たちのマクシミリアンはもういないの。ここにいるのは、アランに成長した彼よ。出世して階級が変わるように、あんたは名前を変えたのね。アランっていう大人になったのよ」
グンネルの視線が、ソフィを捉える。
以前のような挑発的な雰囲気は、もう感じられない。
女性にしては武骨だけれど、アランほどには逞しくない手で、ソフィの頭をがしがしと撫でる。
「大人が子どもを育ててるのかしら。それとも大人が子どもに育てられるのかしらね」
「グンネルさん」
「グンネルでいいわ。落ち着いたら、アランと一緒に王都にいらっしゃい。待っているわ」
ひらひらと手を振って、グンネルは背中を向けた。
その後ろ姿に、プーマラで会った頃の彼女とは違う清々しさを感じた。




